花火史blog Written by 花火歴史家

【1603年〜1867年】江戸時代の花火の歴史を紹介します【花火の変遷】

歴史

江戸時代の花火の歴史を紹介します。江戸時代は花火が庶民に広く親しまれた時代でした。その起源から発展、そして現代の日本の花火に通じる変遷を見ることができます。当時の花火がどのようなものだったのか、興味がある方はぜひご覧ください。

この記事は
「江戸時代の花火の歴史が知りたいな」
という方に向けた記事になります。

こんにちは、花火歴史家です。
30冊以上の書籍から花火の歴史を調べました。
本記事は「花火史年表」という私のブログ記事から「江戸時代」の部分を抜粋しています。

もくじ

【1603年〜1867年】江戸時代の花火の歴史を紹介します【花火の変遷】

日本の夏の風物詩と言えば花火ですよね。鮮やかな色や形の花火は、見る人を魅了してやみません。そんな花火の歴史は江戸時代までさかのぼります。

花火は夜空を舞台に繰り広げられる芸術であり、その発展には歴史と文化が深く関係しています。戦国時代の技術の進歩から江戸時代の平和な暮らし、そして祭りや儀式での神聖な使用まで、日本の花火は多彩な背景を持ち、独自の芸術として発展してきました。この記事では、江戸時代の日本で花火がどのようにして発展したのかに焦点を当ててみます。

1. 戦国時代に技術が確立
日本の花火の歴史は戦国時代の火縄銃から始まります。火縄銃の登場により黒色火薬の製造技術が向上しました。この技術が後の花火製造の基盤となり、美しい夜空を飾る花火の原点となりました。

2. 平和な江戸時代の発展
江戸時代は約250年にわたる平和な時代でした。この安定した状況が、人々が娯楽として花火を楽しむ土壌を提供しました。祭りや行事での花火の使用が一般的になり、花火の発展を促進しました。

3. 文化的な意味と娯楽の定着
花火は独自の文化的背景で根付き、祭りや行事、娯楽の一環として広く受け入れられました。夜空に打ち上げられる花火は人々に喜びと楽しみをもたらし、日本の花火は文化と娯楽の調和から生まれた独自の存在となりました。

4. 神聖な儀式との結びつき
祭りや儀式での花火の使用は、神聖視される要素を加えました。神道や仏教の影響により、花火は神々への感謝や祈りを表現する手段として採用され、夜空を神秘的に彩りました。

5. 無煙火薬の登場と黒色火薬
江戸時代末期、無煙火薬の登場は花火製造にも影響をあたえました。無煙火薬の普及により黒色火薬の兵器利用が減り、花火製造はさらに発展できたのです。これにより花火は芸術として独自の進化を遂げることになります。

まとめ
日本の花火は、技術の進化、平和な時代の恩恵、文化的な背景と娯楽の結びつき、神聖な儀式との融合、そして黒色火薬の平和利用など、多くの要因が絡み合って発展しました。そしてその技術と文化は、現代に引き継がれています。

ここから先の記事は江戸時代の花火史年表になります。興味がある方はぜひご覧ください。

1603年~1867年  慶長8年~慶応3年  火薬技法

徳川時代の慶長8年~慶応3年に至る265年間、大名がその火薬技法を民間に保存させ、祭典行事として伝承することによって、ひそかに保護育成していた例は各地にみられる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1603年~1867年  慶長8年~慶応3年  火薬の技術

そもそも火薬の技術が日本に入ってきたのは戦国時代と伝えられている。その後、江戸時代に神社の祭礼に奉納する風習が奨励され、火薬の取り扱いを氏子である百姓や町民に担わせたため全国的に広がったと考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1605年頃  慶長中頃  和製硝石

和製硝石 戦略物資としての硝石を大部分輸入に頼っている間は、花火が登場する余裕が無かった。国の興亡にかかわる硝石だったのだから、観賞用としての花火に回される事は無かったと言っていい。秀吉政権の頃から硝石の輸入はどんどん下火になってきて、慶長年間の中頃から、色々な資料に和製硝石に関する記録が現れるようになった。これは世にいう文禄の役(文禄元年)と慶長の役(慶長2年)の2度にわたる秀吉の朝鮮出兵の際に、捕えて連れ帰った明軍の捕虜から、硝石の製造法を手に入れる事が出来たと伝えられている事とも関係があるかもしれない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1613年  慶長18年  花火大会

イギリス 国王ジェームス1世が、デンマークの優秀な技術を導入し、1613年、娘のエリザベスの婚姻に際してテームズ川で大花火大会を催した。この頃から前にあげたような花火先進国の成果に学ぶことが熱心にすすめられたようで、主として政府の軍需品部が担当し、国家的な行事の際には大活躍した。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1613年  慶長18年8月6日  花火の記載

木村高敦が寛保元年に書いた「武徳編年集成」に、花火の記載あり。平戸に商館を作ったイギリス人ジョン・セーリスが、国王ジェームス1世の国書を携えた正式の使者として駿府につき、8月3日に家康と会い、陣羽織にする布地や鉄砲、望遠鏡などを献上し、6日には家康に花火を見せたというのである。この花火、筒を立てて黒色火薬を詰めて点火し、噴き出す火の粉の乱れ飛び様を観賞したものだろうと伝えられている。セーリスが長崎から連れて行った明国人(中国人)が見せたものだが、花火自体がイギリスのものだったのか中国のものだったのかは定かではない。とにかく家康が花火を見たことだけは確かである。この時期に日本に花火が登場したとはいえ、その大部分は外国製であり、観賞に堪える大きな花火は大半を外国人が打上げていた。これから考えてみても、この時期は初期の輸入花火時代として位置付けてもいいようだ。世界に誇れる日本花火の出現には、まだかなりの歳月が必要だったのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1613年  慶長18年  立火を見物

イギリスの高官ジョン・セーリスと共に家康が江戸城二の丸で立火を見物したことが我が国における花火の歴史の始まりともいわれている。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

徳川家康 江戸城二の丸で立火を見物 唐人が施工 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

徳川家康 駿府城で花火観賞。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

徳川家康、駿府城で日本人初の花火見物。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1613年  慶長18年8月  煙火に用いた硫黄

煙火に用いた硫黄 花火が日本に渡来したのは慶長の中頃、伊毛達須という唐人が伝えて慶長18年(1613)8月、当時修築中であった江戸城内において上覧に供してよりはじまるといわれている。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1620年  元和6年  花火の奨励

徳川家光 花火の奨励をはかる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1623年  元和9年  花火を推奨

徳川家光 花火好きで花火を推奨 城内でねずみ花火や流星を見物。砲術家などが線香花火や撚り花火などの玩具煙火を販売。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1624年  寛永元年  米子硫黄鉱山の歴史

米子硫黄鉱山の歴史 鉱床は上信火山帯の中の四阿(あずまや)火山のカルデラ内に生成された米子小串型鉱床と呼ばれ、全国的にも重要視されていた鉱山である。採掘の歴史・資料によると寛永(1624~)の頃から掘られていたらしい。米子は運上金額の入札により請負人となった者が一定の年季の間に採掘した請山であった。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1635年  寛永12年  花火解説書出版

イギリス、ロンドンで花火解説書出版「Pyrotechia」 ロケットの利用法をいろいろ説明している。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1635年頃  寛永12年頃  砲術師

各雄藩の砲術師、花火公開を競う? 隅田河畔にあった下屋敷(別荘)で御三家(尾張、紀伊、水戸)を始め、仙台、金沢など雄藩の砲術師たちが、火薬を平和利用して花火を揚げた。庶民もそれを楽しみに見物した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1639年  寛永16年夏  花火観賞

徳川家光 西の丸、酒井忠勝別邸、隅田川で花火観賞。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1640年  寛永17年  祭礼花火始まる

九州立花藩竹飯八幡宮の8月15日満月の祭礼花火始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1644年  正保元年  花火の調合法

上水内郡豊野町石区 花火の調合法を記した「正保元年 花火法 井上氏印」が現存。花火が一般的に盛んになるのは享保頃(1716~1736)からといわれているから、この「花火法」はかなり初期のものといえる。豊野の花火法の中に長野市古里地区金箱の地名の記載あり 金箱から伝えらえたものであろうか。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1644年  正保元年  隅田川で花火

江戸 隅田川で民間花火が揚げられる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1648年  慶安元年6月  禁止令

幕府 火災を恐れ、流星やねずみ花火などを町内で揚げる事に禁止令を発する 1回目 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

江戸市中花火遊び禁止令 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

慶安元年以降相次いで江戸市中における煙火の打上が禁じられた為、煙火は次第に地方へと広がっていく事になる。 「参考文献 : 南信州の煙火 火の芸術に魅せられた男たち(「綿五」原家コレクションを中心として),飯田市美術博物館 編,飯田市美術博物館出版,2014年7月」

江戸市中においてネズミ花火など製造禁止。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

江戸の花火 江戸中でねずみ花火、流星、吹出(立火)等が盛んに行われた

1652年  慶安5年8月  禁止令

幕府 1回の禁止令では徹底せず、また花火遊びが目立ったので、2回目の花火の禁止令が出される。市中で花火遊びを禁止するおふれがたびたび出たという事は、なかなか守られず火事の原因になったのだろう。大川(隅田川)や海岸で消費することは許された訳で、花火の人気がわかる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1657年  明暦3年  明暦の大火

「明暦の大火」江戸市中の大半を焼失。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1659年  万治2年  鍵屋弥兵衛

鍵屋弥兵衛 大和の篠原村から弥兵衛という男が江戸へ出てきた。弥兵衛は火薬が扱え、葦の管の中へ火薬を練って丸めた小さな星を入れて売り出した。線香花火よりいくらか大きい玩具花火だと思えばいいだろう。その頃にはもう火薬の主要原料の硝石は、木挽町(現在の東銀座)あたりの両替商で、茶や紙などと一緒に加賀地方などの特産品として売っていた。それまでにも江戸では線香花火やねずみ花火は売られていた。花火は庶民に根強い人気を持っていた。特に弥兵衛が火術家の烽火からヒントを得て開発した花火は、それまでの小さな花火にはなかった美しさを持っていたので売れに売れた。弥兵衛は両国横山町に店を構え「鍵屋」を屋号として、代々弥兵衛を世襲した。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

江戸鍵屋 大和国(奈良県)から江戸に出て花火屋を始める 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

江戸鍵屋 星が飛び出す花火を作る 現在の打ち上げ花火の元祖 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

江戸の花火師一門鍵屋 江戸で花火が盛んであると聞き、大和国篠原村から江戸へ出てきた。鍵屋は日本橋の横山町に店を持ち、幕府の御用商人として、また明治維新後も第二次世界大戦前まで存続した唯一の江戸の花火屋であった。篠原村の歴史には火薬の技術は存在していなかったと言われる。初代はなかなかの才覚者で、途中、堺さらに岡崎に寄り、火薬の知識を得て、江戸に入ったと思われる。江戸には鍵屋以前に花火師がいたわけである。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

煙火に用いた硫黄 煙火に用いた硫黄 花火師としては鍵屋弥兵衛が最も古く、横山町に店を構え打ち上げ花火のほか目新しいネズミ花火などカラクリ物も手掛けて、市井の人たちの評判をよんでいた。江戸名物両国大川の川開きの花火には、鍵屋と分家の玉屋が趣向をこらして技を競い合ったことは有名である。これにならい、地方各地でも花火は諸行事に欠かせないものとして流行をみるようになった。このことは硫黄の需要をさらに高めたであろう。花火における火薬類の調合は、その家代々の直伝でありすべて口伝となっていたようであるが、鍵屋の秘伝書として今日公開されているものとして「大柳-硫黄15、硝石7、樟脳5」「赤い烟-硫黄20、硝石20,ケイカン50」などと示されたものがあって、やはり硫黄は花火火薬の主なるものであったと言える。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

鍵屋弥兵衛、日本橋横山町で花火を製造。隅田川(大川)に両国橋が架かる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1659年  万治2年  両国橋完成

両国橋完成 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1659年  万治2年  豊橋吉田天王祭

この頃、豊橋吉田天王祭花火定着 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1659年  万治2年  綱火始まる

豊川市進雄神社の綱火始まる。綱を張り流星(ロケット)を吊って走らせる仕掛。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1660年頃  万治3年頃  火薬の製法

岐阜県恵那市 その昔、村の者が種子島へ火薬の製法を学びに行った事に始まり、1660年頃より爪切地蔵尊への奉納とお盆の送り火を意味する煙火が行われていたと口伝されています。奉納花火ゆえにただ点火するのではなく、爪切地蔵尊さまにお供えされている灯明を送り届けるという意味があり、この綱ロケットを使ってそれぞれの仕掛け花火に点火をされます。 「参考資料 : 岐阜県恵那市山岡町 林昌寺」

1663年  寛文3年  製造禁止

江戸市中において、花火の製造禁止。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1665年  寛文5年  禁止令

江戸市中花火遊び禁止令 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1669年  寛文9年  花火上覧

徳川家綱 二の丸で花火上覧(流星・からくり) 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1670年  寛文10年  禁止令

幕府 火災を恐れ、流星やねずみ花火などを町内で揚げる事に禁止令を発する 2回目 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

江戸市中花火遊び禁止令 この頃、京都鴨川の花火始まる 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

町中における花火禁止。但し水辺は認められた。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1670年  寛文10年7月  禁止令

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 人家付近にて花火を出すを禁ず、の記載あり。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1672年  寛文12年  花火研究所

イギリス テームズ川南岸のウリッジ兵器廟に花火研究所が設立され、さらに11年後には花火に関する手引書も刊行されるなど、その後のイギリス花火の隆盛の基礎が確立されたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1680年  延宝8年  禁止令

幕府 火災を恐れ、流星やねずみ花火などを町内で揚げる事に禁止令を発する 3回目 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

徳川綱吉 江戸市中花火遊び禁止令 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1681年  延宝9年8月  仙台藩主

仙台藩主 広瀬川にて花火見物。20代藩主伊達肯山公(綱村)が医師高屋喜安(宗甫)宅におもむき、広瀬川の河原で花火見物。医師が自ら?花火を作ったか。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1681年  天和元年  煙火製法書

佐久市瀬戸の小須田家伝来の「煙火製法書」 長野県史・近代史料編・第二巻(二)のP769に記載あり。記載されている種類は「~松明」となっているので、おそらくは道中照明用と思われる。打ち上げた形跡はない。その点、まことに珍しいもので、他に例を見ない。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1603年~1868年  江戸時代  火術・砲術家

江戸時代に緊急通信用の「のろし」を受け持ったのが火術・砲術家だった。花火には絶対に手を出さなかった火術・砲術家だが、軍事用の烽火(のろし)を上げる事には技術を競った。そうすることによって、自分たちの権威を一段と確固たるものにしていたのである。完成期に入った烽火は、単に火を燃やして煙を出す単純なものだけではなく、いろいろな色の煙を出したり、色つきの絹の布切れを打ち上げて通信するといったものもあるなど、技術的には格段の向上を示した。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1688年~1704年  元禄年間  江戸鍵屋

江戸鍵屋 深山に狼の糞を取りに行き、やがて流星・星下り・虎の尾などの花火が考案され、これらを観賞に供するものとなった。「のろし」は「狼煙」とも書かれ、狼の糞には燐分が多い為燃えやすく、煙がたくさん出たといわれている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1690年  元禄3年 文化史の中の硫黄

文化史の中の硫黄 付け木に使う木片の消費量が多いのでこれを麻幹で代用せよとの厳しいお触れが出るほどで、その原料である硫黄の取扱量も察しが付くところである。北信地方では付け木のことを「ツケンパ」と呼ぶところがあり、今も記憶にある人が少なくない。付け木は農家の農閑期の仕事として近隣では中野の深沢、山ノ内町宇木、牟礼村平出などで作られていたが、そこに付ける硫黄は主に須坂米子の硫黄鉱山や、昭和に入っては群馬県嬬恋村の小串鉱山などで採れたものである。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1691年  元禄4年  愛知県小坂井町兔足神社

愛知県小坂井町兔足神社花火定着 昼花火・建物仕掛・手筒 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1704年  元禄末期  江戸鍵屋

江戸鍵屋 徳川幕府の煙火御用達商を命ぜられ、初めて民間の煙火製造業者として公認されている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1711年  正徳元年  甲州市市川大門神明の花火

甲州市市川大門神明の花火の記録あり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1712年  正徳2年  静岡草薙の龍勢

静岡草薙の龍勢の行事始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1712年  正徳2年8月10日  郊戸神社祭礼

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 郊戸神社祭礼にて初めて花火を揚げる。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

飯田の今宮郊戸神社の奉納煙火始まる。この頃から県内の神社の祭事に合わせて奉納煙火始まる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

長野県における煙火の歴史は飯田市を中心とする南信地方より始まる。飯田の花火のうち最も古いものは、1712年に始まった飯田今宮郊戸神社の奉納煙火と言われている。そのルーツは、当時煙火の先進地であった三河と伝えられており、天竜川沿いに煙火文化が伝播したものと考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1716年~1736年  享保年間  町人の花火文化

享保年間も末になると、町人の経済力が大きく発展し、武家の文化に対して町人文化が絢爛と花を開くのだが、その頃から大商人が大川端の料亭を利用することが多くなった。納涼期間には涼み船で大川に繰り出すが、その周りには花火を売る花火船が集まった。江戸大店の旦那衆の豪遊ぶりは当時の文芸作品や芝居にも数多く残されているが、その中でも自前の花火を一瞬の座興のために打ち上げさせるのは大変な豪遊だった。このように、両国橋を中心とした大川で花火を打ち上げたのは、何も川開きの当日に限ったわけではなく、納涼期間中なら雨さえ降らない限りは、大商人の誰かの船から花火が打ち上げられていたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1716年~1736年  享保年間  武家の花火文化

武家の花火 町人が花火を打ち上げているのだから、大川沿いに下屋敷を持つ諸大名も競って花火を打ち上げるようになった。大名花火はお抱えの火術・砲術家が担当したり、町人花火師を呼んで打ち上げさせたりした。特に尾張、紀州、水戸の徳川御三家の大川沿いの下屋敷から打ち上げる御三家花火が江戸の庶民にもすこぶる人気があって、夕涼みをしながら花火見物をするのが習わしになっていた。また仙台伊達家の花火は、伊達政宗以来代々伝えられた豪放な家風を表していて、江戸庶民の間では大好評で、見物客が大勢押し掛けたために、仙台藩邸近くの万年橋の欄干が折れるという事故までおこすほどだった。こうした武家の花火は、通信用に使っていた烽火にいろいろ細工をして観賞用としたもので、「狼烟(のろし)花火」と呼ばれるものである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1716年~1736年  享保年間  武家花火と町人花火

大名花火ともいられた武家花火は、火術用の木砲を使って高く打ち上げられた縦の花火が主体だった。一方、鍵屋などが主流となった町人花火は、仕掛け花火などの横に広がりの有る物が中心で、完全に観賞用として開発されていた。武家花火と町人花火は、出発の時点から使用目的も思考方法も違っていたのだが、この両者の傾向の違いが、現代の日本の花火に大きくプラスしている事は明らかである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1716年~1736年  享保年間  清内路村

清内路村の手作り花火 享保年間以来の伝統をもち、その種類は仕掛け花火に属し、花傘・巴車・棚火・綱火・手筒・焼字・神前・大三国の他、それぞれ工夫を凝らした勇壮豪華な仕掛け花火が、秋季祭典に奉納される。

1717年  享保2年  鍵屋弥兵衛

鍵屋弥兵衛 初代の弥兵衛は研究熱心だったとみえて、その後も大型花火の実験を重ね、とうとう享保2年には水神祭りの夜に献上花火を打ち上げてみせて、後々の川開きの花火の先鞭をつけた。弥兵衛が江戸に出て玩具煙火を手掛けて以来、人に見せるに足りる大型の花火を打ち上げるまでには58年の歳月を要したことになるわけだから、花火1発の打上がいかに難しかったかがわかる。 弥兵衛の花火が開発されても、どこでも勝手に打ち上げられたわけではない。江戸で大きな川があって、見物人も集まれるところという条件を満たしたのが、両国橋を中心とする大川端だった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1717年  享保2年  大阪水神祭

大阪水神祭に夜の花火献上。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1725年  享保10年  秩父吉田の龍勢

秩父吉田の龍勢始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1729年  享保14年  硝石

江戸の火薬硝石問屋組合25人、大伝馬町薬商19人 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1729年  享保14年  硝石

幕府、薬の専売制を敷く。硝石卸売り指定。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1730年頃  江戸時代中頃  打ち上げ花火

剣術、槍術などから一段低いものとして見られがちだった火術・砲術家は、自分たちの技術を権威づける為に、ささいなことでも秘密めかし、一種の閉鎖社会を作り上げてしまった。当然のことだが、武術としての火術家は、花火などには絶対に手を出すことはしなかった。同じ火薬の専門家である花火師が、花火の研究に精を出していた時期に、火術・砲術家は単に権威という殻に閉じこもっていたずらに時を過ごしてしまっていた。すでに述べたように、花火師は火薬が潤沢ではなかったというだけではなく、技術的にも大型の花火は打ち上げる事が出来なかった。後に花火師が大型の花火を打ち上げられるようになったのは、火術・砲術家が打上げていた「のろし」にヒントを得るところが大きかった。その意味では、大型の打ち上げ花火は町人の花火師と武家の火術・砲術家の技術協力の結果と言ってもいいのかもしれない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1731年  享保16年  下伊那の清内路

県の無形民俗文化財に指定されている下伊那の清内路の煙火は三河より伝来したもので、享保16年以来のものと言われている。清内路煙火は6派がある。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1731年  享保16年  水神祭

全国的凶作と江戸の疫病流行の翌年に、幕府は悪霊退散のため両国橋付近で水神祭を催したが、その時、両岸の水茶屋が余興に献上花火を打ち上げた。これが両国の川開きの始まりとされている。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1731年  享保16年  信州下伊那清内路

信州下伊那清内路の両諏訪神社奉納花火始まる。天竜川を下って三河に煙草を運び、花火の技術を教わってきて始めた行事といわれている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

信州下伊那清内路 上清内路と下清内路の両諏訪神社社堂の再建に煙火を3日間奉納

1732年  享保17年  水神祭

大飢饉と疫病の流行 幕府が隅田川において水神祭りを挙行し、五穀豊穣と悪病退散の祈願として花火を打ち上げた 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1732年  享保17年  川施餓鬼

大川で川施餓鬼(川開きの初め)を行う。鍵屋6代目の時。両岸の料亭が出費して花火を見せたのが川開きの初め。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1733年  享保18年5月28日  両国大川の川開き

両国大川の川開きで花火が打ち上げられるようになったのは、享保18年5月28日からだという。前年の享保17年には関西を中心とした全国的な大飢饉に襲われ、加えて江戸では伝染病のコロリ(コレラ)が大流行して多くの死者を出した。8代将軍徳川吉宗が死者の霊を慰め悪疫退散を祈って、両国大川の水神祭りを催した。これに大川沿いに店を張る水茶屋、料亭が協力して川施餓鬼を行ったが、この日に大花火を打ち上げたことから、川開きに花火を打ち上げる習慣が生まれたといわれている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

両国の川開きに花火が行われるようになった 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

両国川開き毎年実施する。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

前年コレラ大流行。川施餓鬼を行い、ここに「両国川開き(花火)」始まる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1736年  元文元年  文化史の中の硫黄

文化史の中の硫黄 古い大阪市史によると元文元年(1736)、出羽の国から大阪に搬入された硫黄は28000斤とあって、その相当数が付け木用として使われたという。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1741年  寛保元年 尼崎藩

尼崎藩 花火打上。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1741年  寛保元年  西欧の花火

イタリア(ローマ)から開発された西欧の花火は王侯貴族に愛された。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1751年  宝暦元年  打上花火

現在のように筒から花火を打ち揚げる事が始まる。それまでは噴出花火が主流であり、次いで噴出しを竹に付けた流星(ロケット)が揚げられた。炎色も暗い物だった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

現在のように筒から打ち上げる形式が始まる。

1754年  宝暦4年  清州天王祭

尾張清州天王祭花火が定着。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1756年  宝暦6年  長野市古牧

長野市古牧の平林地区に遺された「平林若者連永代記録」が書き綴られはじめる。花火に関する記載あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1758年  宝暦8年4月24日~27日  松本城

松本城 城主戸田光徳が弓と鉄砲を御覧。当日へ向けての訓練用の火薬や玉の代金が松本藩から支払われた。弓組と鉄砲組の命中率を比較すると、弓組の方が命中率が良かったという結果になりました。 「参考資料 : 松本城管理事務所 多湖家所蔵文書」

1758年  宝暦8年  米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 宝暦年間に江戸の人、永峰藤吉が請負人となった。宝暦8年の入札で藤吉の納めた運上金の額は一年間で78両という高値であったことや、宝暦4年と刻印のある97段の石段を滝山不動尊奥の院に寄進していることから推し量って、この頃江戸表では硫黄の需要が高まりその値段も上昇していたのであろうと考えられる。この頃は露出した自然硫黄を「鷹の目」「鵜の目」と称して採るだけであったが、19世紀半ば文化年間に米子の人、竹前源九郎が焼取のよる精錬を行った。これが現鉱山の初めであるという。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1764年  明和元年  遠州新居町諏訪神社

遠州新居町諏訪神社の手筒花火定着。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1774年  安永3年  近江八幡篠田神社

近江八幡篠田神社の花火始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

篠田花火 篠田花火、雨乞いの為上田神社に奉納され、現在に至る。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1777年  安永6年8月  長野市妻科神社

妻科神社 花火願書 大鈴木家文書に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1777年  安永6年 大阪の花火師

大阪の花火師10軒。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1780年  安永9年  北信

稲荷山 北信では稲荷山の煙火についての記録がある 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1782年  天明2年  安茂里

犀川神社 煙火の歴史と犀川神社の杜煙火 煙火の起源-狼煙 煙火の起源は、狼煙であるとの説があるが、安茂里の犀川神社に伝わる「杜煙火」も、その始まりは狼煙ではないかと考えられる。それは鎌倉時代にこの地に城を構えた窪寺氏の時代からとされている。当時、鎌倉幕府は火急の事態の発生に備え、全国各地に点在する御家人を鎌倉に召集する「いざ鎌倉へ」のための非常招集の合図の手段として、狼煙が用いられた。天明2年(1782)の開墾にかかわる記録の中に「観音堂上煙平」という地名があり(「久保寺今昔」に詳しく書かれている)、現在の正覚院の円通殿の上部である。煙平は戦乱の折に急を告げる狼煙が上げられていた、いわゆる狼煙台として使われていた場所ではないだろうか。狼煙が煙火の起源とされている。しかし安茂里の煙火と、「観音堂上煙平」にかかわる狼煙が直接的に関係あるとは考えられないが、かつてこの地に狼煙を扱う技術を持った集団がいたとしたら、何か因縁を感じさせるものである。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

安茂里 大門地区「煙平」の由来は、中世の頃狼煙を上げた所、との記載あり。 「参考文献 : 安茂里史 長野県長野市,安茂里史編纂委員会編,安茂里史刊行会,1995年」

1782年/1833年  天明2年/天保4年  清内路

清内路では、天明・天保の大飢饉でも休まなかったと伝えられ、戦中・戦後も筒役(神前・三国)を奉納し続けている。 「参考文献 : 南信州の煙火 火の芸術に魅せられた男たち(「綿五」原家コレクションを中心として),飯田市美術博物館 編,飯田市美術博物館出版,2014年7月」

1783年  天明3年  花火の書

大阪の本屋の丹波屋半兵衛が花火の書の出版を願い出たが、差し止められ出版できず。出版年は不明だが、文字の形や挿絵が1700年前後の版本の特徴が見られる花火の書は現存。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

1786年  天明6年  線香花火

線香花火 天明6年刊の越後国の花火秘法書に、筆花火(線香花火)の図あり。筆者不明。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1786年  天明6年  塩素酸加里を発見

フランスのベルトン 塩素酸加里を発見。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1788年  天明8年  尼崎藩/仙台藩

尼崎藩、花火番組あり。仙台藩主、広瀬川で花火見物。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1789年  寛政元年  砲術番付

尼崎で行われた砲術番付は、当時、あくまでノロシであるにも関わらず、現在の煙火番付と殆ど類似し、特に夜の部の番付と言われたものの中には、後世の夜煙火と同じ名前が付けられているなど、現在の打上煙火の起源が明らかにノロシであることを物語っているのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1800年代  寛政12年以降  北信地方における煙火

北信地方における煙火の製造は、1800年代から始まった記録が残っている。当時は、秋祭りでの奉納を目的とした煙火が中心であり、住民らの手によって製造されていた。明治に入り、法律の規制により煙火製造が専業化していくが、奉納物としての役割は残る事となった。現在も集落の祭りでは、煙火を打ち上げる習慣が残っている。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1801年  享和元年  寺島の花火

寺島の花火に700の見物船(摂陽奇観)。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1804年  享和4年  一橋亜相卿

一橋亜相卿の鑑賞した三股の花火番付に「打揚」の記載あり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1806年  文化3年  片貝の花火

この頃、新潟・片貝の花火始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1808年  文化5年  江戸玉屋

江戸玉屋 鍵屋のれん分けして分家玉屋を両国吉川町に作る。鍵屋の守護神であるお稲荷さんの狐は、一方が鍵を持ち、一方が擬宝珠を持っていたが、鍵屋八代目は独立に当たってこの玉を与え、玉屋の屋号を許したという。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1809年  文化6年  犀川神社

久保寺煙火 犀川神社 久保寺煙火 「花火の法」と書かれた秘伝書がある。大門区所有。 文化6年(火薬調合法86種記載)、文化11年、文政12年、弘化3年(火薬調合法180種記載)、明治11年の5冊がある。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1809年  文化6年  岡崎大矢河畔

岡崎大矢河畔(菅生川)で花火。三河煙火史。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1810年 文化7年  玉屋

鍵屋が6代目になった文化7年に、鍵屋の手代だった清吉が別家して両国吉川町に「玉屋」の看板を上げた。江戸商人は丁稚、手代、番頭といった身分階級が厳しかったが、番頭にならなければ分家、別家など「のれん分け」はしてもらえなかった。こういう習慣を破って手代で主人の6代目鍵屋弥兵衛に信用され、店を持たせてもらえたのだから、清吉の才能は尋常ではなかったと考えられる。火を扱う商店として、鍵屋は特に鍵屋稲荷を守護神にしていた。その祠の前の狐の一方が鍵を、一方が擬宝珠(ぎぼし)の玉を持っていた。鍵屋は清吉を別家させるときにこの玉を与えた。以来、清吉は市兵衛と改名の上、玉屋として独立したのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

このころ玉屋が鍵屋から分家する。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

この頃、玉屋が鍵屋から分家、独立。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1813年  文化10年  長野市小牧

長野市小牧の平林地区に遺された「永代記録」に煙硝代と硫黄代の記述あり 。煙硝はお宮の縁の下ですって調合したという古老の話と記録が残っている。「永代記録」は宝暦6(1756)年より村の若衆組によって書き綴られていた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1814年  文化11年8月14日  今宮花火祭礼

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 今宮花火祭礼の夜、傷を受け五人を相手取り訴え後、扱金廿両に依り示談となる。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1816年  文化13年  江戸佃島の花火

江戸佃島の花火 「花火番組74種119番」との記載あり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1816年  文化13年  小林一茶

小林一茶 「大それた花火の音も祭りかな」 かつて地域の青年たちが安茂里村(現長野市)の花火師から製法を教わり、手作り花火を打上げた。歴史は古く、一茶の1816年(文化13年)の日記に、門人宅で見たとの記述もある。落合神社の秋祭りに奉納しており、同社は伝統を途切れさせず、地域の活気を守ろうと考えた。 「参考資料 : 落合誌 落合花火を打上げる会(信濃町落合地区)」

1817年  文化14年  硝石製法備要集

斉藤甚太夫の書「硝石製法備要集」に硝石産地として、加州、米沢、飛騨、甲州、信州、日光、相馬、蝦夷、を挙ぐ。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1818年  文政元年  須坂城主楽焼窯開き

須坂の城主が窯開きに花火を上げる。北信で最初の打ち上げ花火という説あり。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

北信地方での最初の煙火打ち上げは須坂市の須坂城主楽焼窯開きでの煙火という説があるが、正確な記録は残っていない。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1821年  文政4年  佃島

長崎から代官、作右衛門の次男、高木進之助および、御鉄砲方高木内蔵が江戸に来て佃島海上で合図のノロシをあげたことが、「視聴草」に記されている。この時の昼の番付の合図の部にある袋物の名称に、象・唐舶・鶴・および亀などがあり、この時代になると、大体、現在の煙火の源になった物が出揃っていたようである。また、これらの製造法については、「安盛流 相図流星の巻」「小華小録流 星極砲伝書」「萩野流 花火術」などに詳述されるところとなり、これを見てもノロシが打上煙火の源であることが知られる。と同時に、応仁の昔より三河武士によって駆使されたノロシは、鉄砲伝来により改良され、徳川家康の蔵するところとして研究された。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

中国式火術 唐の制度をまねて作られた烽燧(ほうすい)は、更に中国文明の伝来により信号用としては狼烟(ろうえん)を誕生させ、一方、攻撃用としては火槍・鉄炮の火術を伝えたのである。この中国式鉄砲を鉄炮(てっぽう)と言い、西洋式の鉄砲がいわゆる現代の鉄砲である。この中国式火術については、先ず大陸との関係から知らなくてはならない。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

長崎代官(高木氏)江戸佃島で花火披露。オランダ伝来の花火技術を供覧したか。新しい原材料を長崎では入手できたか。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1822年  文政5年  祭礼花火の流行

祭礼に花火を打上げる事も流行し、各地の村々でおこなわれた。文政5年(1822)岩村田町の花火に殿様(内藤正縄)御成りがあった。竜雲寺林東方に殿様の御小屋を建て、紫の幕を張り屏風をめぐらした。重臣の小屋も建ち並んだ。八つ時(午後二時)に花火が始まり、夜五つ時(八時)過ぎにめでたく終わった。昼の花火は、一番赤雲から十二番の赤雲白竜二段まで、夜の部は、一番連星から火柳・飛蜂星・星下り・往来の火・独曜星・布引(ぬのびき)・柳火集星二段発・日月(じつげつ)・往来火・玉簾(たますだれ)・集星、十三番の火竜星までであった。翌年4月にも殿様御成りの花火があって、昼30本、夜22本が打ち上げられた。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第六巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1822年  文政5年  金魚花火

岡崎天王祭で「金魚花火」出現。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1823年  文政6年  信州新町越道飯縄山

信州新町越道飯縄山の花火 大日方司殿御免鉄砲所持者4名が花火師として担当。配合帳「花火合」が現存。花火の製造は蔵の二階で花火師達が当たった。平成8年まで継いていた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1823年  文政6年  長野市平林

長野市平林の宝樹院住職の葬式に、棺に「地雷仕掛」をした。十返舎一九の火葬の時も、棺に花火を仕掛けてあったというから、当時の流行だったのだろう。「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1824年 文政7年  久保寺煙火

久保寺煙火(犀川神社)の起源 久保寺氏の氏神と言われている日吉(ひえ)山王社名が、氏子一同の願い出により、神祇官の京都吉田家より「犀川神社」と改名が許可されたのを祝って、社号披露に奉納煙火が揚げられたのが、久保寺煙火の文献上での最初である。長野市では最古。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

犀川神社の花火方三派 狼煙で日中に煙を扱うのは小西の小路と西河原地区であって煙を霞にたとえた霞真(かしん)流という。大門が夜に火を扱うので大火流という。差出地区が声やドラ・太鼓・鐘などの音を扱うので、昇声流という。この三派による共演は、花火のたどった狼煙時代から現在に至る道を思わせるのであった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

長野市で最初の打上は、1824年に行われた長野市安茂里に位置する犀川神社の杜花火である。久保寺の氏神が、社号の変更を許可されたのを祝賀する花火だったというが、秘伝書の「花火の法」という記録は1809年にすでにあったというため、それ以前から煙火は存在したと思われる。この久保寺の煙火に集まる同好者から煙火研究に熱が入り、煙火専業に従事する者が輩出した。この犀川神社の杜花火の開始以降、様々な神社で煙火の打上が行われるようになった。長野県で煙火産業の盛んな南信地方、北信地方はともに神社で行われる奉納煙火を起源としており、長野県の煙火の歴史において奉納煙火が重要な役割を果たしている事が読み取れる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

長野市では、神社へ奉納煙火としての杜花火が神社周辺の住民たちによって盛んに行われるようになった。これは主に集落単位での秋祭りの際に行われることが多く、米や芋を奉納するのと同様、五穀豊穣などを願って奉納していたとされる。煙火を神社の奉納する文化の存在が、北信地方における煙火産業の興隆に繋がっていると考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

北信地方における煙火の打上は19世紀初頭からであるが、当初は秋祭りや地域の恵比寿講などで比較的小規模に行われていたものが多く、金銭のやり取りも少なくボランティアのような形であった。このような形態の中では、住民が誰でも煙火を製造し、奉納することが可能であった。煙火普及の過程ではアマチュア同好者によって煙火製造が行われ、農業や自営業などとの兼業体制であったと言える。しかし、1910年に鉄砲火薬類取締法が改正され、製造には作業設備の保有や警察の許可が必要となったことから、煙火の製造は専業化されていった。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年

1826年  文政9年頃  流星花火

須坂の豪農田中一族が流星花火を打つ。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1826年  文政9年  医薬に用いた硫黄

医薬に用いた硫黄 「硫黄の用をもっとも広し、薬に用いるは古きを貴ぶ、信州の鵜の目、鷹の目の類皆絶なり」と漢方薬の処方として書かれたもの(文政9年の序あり)からも硫黄服用の効果を想像できる。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1827年  文政10年8月  長野市古牧

長野市古牧の平林地区に遺された「平林若者連永代記録」に花火代、硫黄代、樟脳代の記載あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1827年  文政10年  岐阜垂井大石

岐阜垂井大石で花火小屋作る。天保年間に入って秋葉神社の祭典として盛んに奉納花火(車火・万燈など)を行う。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1830年  天保年間  松代藩山内沓野

松代藩山内沓野で硝石製造開始。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1833年  天保4年  高野一道

高野一道 生まれる。埴科縣神社の参道の横に銅像と花火打ち上げ用の筒がある。明治時代の蘭法医で順庵と号した。天保4年(1833年)更級郡境新田村(信田村)丸山段蔵の三男に産まれ、生萱村の高野正庵の後を継いだ。高野氏は代々医師を生業にして松代藩に仕えた。一道も医者となり戊辰の役には松代藩の軍医として従軍し功績があった。生来無欲で医療はまったく仁術で薬礼を請求した事が無く、埴科・更級郡で、その恩恵を受けた者は数えきれないほどだった。煙火にも興味を持ち、日本で一番早く二尺玉花火の打ち上げに成功した人と言われている。岡崎(愛知県岡崎市)の花火師から製法を伝授されてから、4年後の秋祭りに二尺玉の打上を決めて準備をした。祭りの日の打上場所は、西湯沢の田園で埴科大宮神社から導火線に点火、途中で火が消えてしまい2~3度やり直したが大筒まで届かず、一道が自身で大筒に火を投げ入れたが大筒が大破して破片が飛び散り稲穂も打ち落され大失敗に終わった。その時の費用は甚大で当時500円(籾150俵相当)の大金を要したと言われている。 「参考文献 : いきがやぶらり歴史さんぽ,生萱を知る会」

1833年 天保4年 徳島相生町

徳島相生町吹き筒花火定着。同種のもの小松島立江に在る。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1835年 天保6年 安房平久利

安房平久利の花火定着。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1836年 天保7年 水内郡平林村

水内郡平林村 村の遊び日は、村の労働の休みの日であるとともに、村人の娯楽の日であり、村人がともに文化的なものを享受する日でもあった。それは個人的な文化の享受や若者仲間だけの文化の享受とは違って、村落共同体によるものであった。よそから招いた催し物の場合もあったが、村の若者たちの手で催されることが多かった。若者たちは、その日の為に歌舞伎・浄瑠璃・踊りなどを習い、相撲を稽古し、花火の技術を学んだのである。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第六巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1836年 天保7年 瓜割煙火

瓜割煙火 「疫れい、即ち赤腹と称する病流行の際、村内重立の者において協議の上、硫黄又は硝石の香りは疫れいに効能あるものとし、盛んに森煙火の奉納したる効能にや、翌年以来大流行病絶滅したるにより、一は深慮に叶へたるものとし、即ち森煙火は村内平和と離るべかざるものにして年々奉納挙行したり」 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

瓜割煙火の起源 疫病流行に効能があるとし、春祭りに杜煙火の奉納。後に瓜割煙火は西沢煙火店、花屋鈴木煙火店、藤原煙火店、紅屋青木煙火店の指導を受ける。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1836年 天保7年 長野市古牧

長野市古牧の平林地区に遺された「平林若者連永代記録」 花火を奉納する場合は役員にお伺いを立てる事。他所に花火を奉納する場合も役員にお伺いを立てる事。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1840年 天保11年 長野市平林

長野市平林の2つの筒で30発余打上。筒の長さは、大:1丈(約3m)、小:7~8尺(約2.1m~約2.4m) 「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1841年 天保12年7月 飯田藩

飯田藩は幕府の天保改革令を受けて、飯田町大宮・今宮祭礼の町方奉納花火が、近ごろ品柄(しながら)・員数とも増すいっぽうで経費が増大していると咎め、緊縮を求めている。しかし、両宮の花火は盛大で、ケガ人が良く出たほどであった。ほかに下伊那をざっと見た範囲でも、化政期以降、飯田領の毛賀・駄科(だしな)・名子熊(なごくま)・山・島田(飯田市)、座光寺知行所の山吹(高森町)、白河領の吉田(同)、知久知行所の河野(豊丘村)、高須領の伴野(同)、幕府領の林(同)、千村預り所の清内路村、等々の花火が、かわるがわる催され、所領をこえて遠近の見物でにぎわった。大宮・今宮などは専門の花火師によったらしいが、村々の場合、若者仲間の手製花火が主であった。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第六巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1841年 天保12年 小川村高府武部八幡宮

小川村高府武部八幡宮 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1841年 天保12年 長野市平林西後町

長野市平林西後町の小妻屋から硝石が奉納され、音羽滝を消費。「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1842年 天保13年 長野市押鐘万刀美神社

長野市押鐘万刀美神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1842年 天保13年 硝石製薬販売法規

銀30匁以上の花火、竹花火禁止。幕府 硝石製薬販売法規を定める。天保の改革で花火やその原料の規制を行った。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1842年 天保13年 玉屋と鍵屋

幕府が、玉屋と鍵屋を呼び出し、大川筋の花火に代銀3匁以上の費用をかける事と、花火からくり(仕掛花火)、筒物を禁止する。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1843年 天保14年5月17日 玉屋の興亡

玉屋の興亡 玉屋市兵衛方から出火。玉屋は全焼したばかりか街並みを半町ほども類焼させてしまった。たまたま出火の日が将軍家慶の日光東照宮へ参拝に出立する前日であったことから、玉屋は闕所(けっしょ、財産没収)、江戸お構い(追放)になってしまった。後に玉屋は営業を再開したが、昔日の隆盛を取り戻すことは出来なかった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

光芒の時代 木炭の燃える炎の濃淡を自由自在に使いこなして、精巧な花火を造ってきた江戸時代の花火師の技術は、世界でも例がないものだった。この花火文化史上、「和火の時代」として位置付けられている時代は「光芒の時代」と呼ばれることもある。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1843年 天保14年 豊野町石鷲寺諏訪社

豊野町石鷲寺諏訪社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1843年 天保14年 長野市若槻蚊里田八幡宮

長野市若槻蚊里田八幡宮 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1843年 天保14年4月17日 江戸玉屋

江戸玉屋 出火。街を半町ほど類焼させてしまった。その翌日たまたま将軍家慶が日光東照宮に参拝することになっていたため、市内を騒がせた不届至極ということで、所払いで追放となり、玉屋は断絶してしまった。一代30年しか存在せず、川開きで技を競った期間は20年あまり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1843年 天保14年 玉屋失火

玉屋失火。所払いとなる。”所払い”という罰は最も軽く、”江戸払い”と異なり居住地区を離れる事で、一説には浅草東本願寺脇の「誓願寺前」または「深川海辺大工町」へ移ったと言われている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1843年 天保14年8月22日 飯田藩

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 村々鎮守祭礼に付き無届にて花火打ち上げの向きありしも以来は必ず其品数届出づ可く触、但、打上狼煙、大流星は前通り停止。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1843年 天保14年 玉屋失火

将軍日光社参の前夜、玉屋失火。所払いとなる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1846年 弘化3年7月24日 問御所村栽松院境内天神

問御所村栽松院境内天神の祭りに奉納された妻科村新田組の龍勢花火が石堂組忠七の屋根に落ちる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1846年 弘化3年 長野市北尾張部神社

長野市北尾張部神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1847年 弘化4年 瓜割煙火

瓜割煙火 善光寺地震で関係書類は焼失する。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1847年 弘化4年3月24日 武井神社

奉納煙火について 武井神社の記録は善光寺地震で焼失しているため分からない。神事には灯明としての神聖な火をロウソクに灯して使用するが、煙火は使用しない。人々にとって「価値の有る物」をお供え物として神に捧げる行為が奉納なので、煙火が奉納されたのではないか。美しいから奉納の対象物となったのではないか。 「参考資料 : 武井神社」

1847年 弘化4年3月24日 善光寺地震

善光寺地震 死者8000人以上。

1847年 弘化4年4月13日 善光寺地震

善光寺地震 犀川の堰き止め湖が決壊。決壊に対する警戒態勢は2ヶ所の監視小屋で行われ、監視役から狼煙により決壊の報が本陣に伝えられた。

1848年~ 嘉永年間~幕末 川開き花火

川開き花火 嘉永年間から幕末にかけて、内外の情勢が切迫し、川開き花火は中止になってしまった。さすがに楽天的だった江戸っ子も花火を見て楽しむ余裕を失っていたのかもしれない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1848年~1850年 嘉永1年~嘉永3年 両国の花火

この間、両国の花火はほとんど行われず。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1850年 嘉永3年 妻科神社

妻科神社 嘉永3年の「神傳花火法帳」残存。他に「花火法記」「花火法」「花火元集帳」「妻立花火法」が現存するが年号記載なし。年号の記載はないが、配合薬品の違いから明治12年以前の和火時代、明治12年以降の洋火時代と分ける事が出来る。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1851年 嘉永4年3月 佐久間象山

佐久間象山 松代藩士で幕末期の兵学者、思想家の佐久間象山は、かねてから海外の兵器の研究をし、本格的な西洋式大砲の鋳造に成功しました。松代藩領であった生萱村(現在の千曲市生萱)で、嘉永4年3月にその鋳造した大砲の試射を行う事となりました。 生萱 埴科縣神社 佐久間象山が我が国で初めて大砲を実射した地で、その砲弾が神社に奉納されている。砲弾重量は約3kg。 「参考資料 : 千曲市生萱 埴科縣神社」

1852年 嘉永5年 群馬県藤岡市

群馬県藤岡市十二天社建立。

1853年 嘉永6年6月 ペリー来航

ペリー来航で硝石の価格1両8貫匁が500匁に。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

黒船来航 黒船来航にともない、幕府が硝石製造を推奨。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

ノロシについて 狼煙、狼火、の狼という字がなぜ使われるか。オオカミの毛糞には花火の発火剤に用いられている硝石に似た成分が多く含まれているらしい。ペリー来航時、緊急通報用の狼煙の為に、紀州藩では狼の糞を必死で集めたと文書に残っている。 「参考文献 : 情報と通信の文化史,星名定雄,法政大学出版局,2006年10月」

1854年 安政元年 爆発事故多発

火薬製造中の水車小屋爆発事故多発。幕府、火薬取扱いについて命令を出す。外国船来航に備え、幕府は要塞(お台場)造営と同時に火薬製造を奨励したため、各地で硝石作りに水車を回し、不慣れの為各地で爆発事故が発生した。その対応策に追われる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1854年~ 安政年間 静岡県 草薙神社

静岡県 草薙神社 戦国時代の天文12年(1543)初めて火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。「昼ののろし」(龍勢)は、煙や布きれ又は旗などを漂わせ、「夜ののろし」(流星)は光で合図したものであった。この技法が当地に口秘伝のまま受け継がれて、更に工夫改良され、安政年間からは日本武尊を祭神とする草薙神社の秋季例大祭日に打上げが行われてきました。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1854年~ 安政年間 米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 安政年間に書かれた中居屋十兵衛の砲薬新書に「鵜の目硫黄は信州米子山より出るを上品とす」と記されている通り、米子では良質の鷹の目、鵜の目の量が圧倒的に多かったのである。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1858年 安政5年 コレラ

コレラ病不発前 硫黄七匁、硝石三匁 粉末にして火にくべ嗅ぐべし 丹波島駅史に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

コロリが大流行する。安政コレラは長崎港に中国経由で入港した米軍艦ミシシッピー号によりもたらされた。松本地方の流行は9月中旬ころからで、百瀬陣屋の「御用日記」には松本の岡宮神社、筑摩神社、穂高神社でも祈祷が行われている。9月16日には江戸屋敷から幕府の暴しゃ病(ぼうしゃびょう)の治療法が届けられた。 「参考資料 : 安政5年御用日記 近藤家文書 松本城管理事務所蔵」

1863年 文久3年 両国の川開き

幕末の動乱期 花火どころではなく両国の川開きの花火中断 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1863年 文久3年 瓜割煙火

瓜割煙火 煙火法帳が現存。文久3年、明治12年、大正5年、昭和25年の4冊が現存。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1863年 文久3年 豊野町川谷長清寺

豊野町川谷長清寺 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1866年 慶応2年 三水村苔翁寺金毘羅堂

三水村苔翁寺金毘羅堂 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1867年 慶応3年 火薬製造所

幕府、滝野川に火薬製造所を設立。ベルギーから機械輸入。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1868年頃 江戸時代末期

鍵屋 鍵屋は江戸時代末期に武士の屋敷に頼み込んで教えてもらったと、子孫が昭和になってから明らかにしている。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

砲術方 煙火は狼煙に携わる武士が開発したものと思われる。砲術方は基本的に、鉄砲、大筒、狼煙の3つを同時に担当したため、それぞれの技術を結び付ければ容易に打上煙火を製造できるはずだ。始めは狼煙の一種だったが、将軍や藩主が鑑賞したり賓客をもてなすために手を加えて花火になり、技術移転されたと考えられる。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

砲術家 花火の秘伝書は、各地の図書館に他の古文書と共に集められ保管されています。秘伝書は、大部分が武士で砲術家が大型砲の試射や自派の宣伝として、砲弾の代用に煙火を打ち上げています。一部の砲術家は、手遊びとして庭花火も行っています。 「参考文献 : 煙火,竹内武雄編,竹内武雄,1989年」

篠原煙火店 煙火技術は群馬県から菅平を越えて初代社長に伝わったとされている。江戸時代は煙火師が煙火を揚げるのではなく、地域の豪商や名士が筒を持っており、煙火師が作った玉を揚げる事が多かった。須坂市は長野市よりも早くから恵比寿講の煙火が始まり、煙火業者が専業化する基盤が古くから備わっていた。そのため本家から煙火作りが始まり、創業当時より煙火師として生計を立ててきた。煙火製造は爆発事故の危険性がある為、賠償金に充てる為の土地を所有していたが、煙火の製造に専念するために土地は農地として貸していた。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1868年頃 江戸末期 長野権堂村

長野権堂村遊女屋の客寄せに、秋葉神社祭礼の際花火打上げる。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1868年頃 徳川時代 徳川時代の花火

徳川時代の花火は、すべて虎の尾式が主でいわゆる「流星」「星下り」で真円く開くものはなかった。浮世絵に描かれているのはウソである。 「参考資料 : 両国川開大花火番組 昭和9年号」

1868年頃~ 江戸末期~明治初期 上水内郡豊野町石区

上水内郡豊野町石区 花火の調合法を記した「花王流花術秘伝実記」が現存。花王流という花火術が京都府山科の真言宗山階派大本山亀甲山勧修寺と縁の深いことが記載されている。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1868年頃~ 江戸後期~明治 奉納煙火

狼煙として入った物が改良され、古くから各地に残る神社での、その土地の独特な奉納煙火に発展 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」