花火史blog Written by 花火歴史家

花火の歴史がわかる花火史年表【火薬の発見から現代の花火まで】

歴史

花火の歴史に興味を持って検索してくれた方が、より多くの史実を知れる記事になることを目指します。それではご覧ください。

こんにちは。花火歴史家です。
花火の歴史を調べています。花火がhanabiとして世界共通語になる日に向けて活動中。

※お詫び
完成してから公開しようと考えていましたが手を付けられていない書籍が複数あります。
完成するまでには時間がかかるので未完ではありますが公開することにしました。
新たな情報を得ればその都度記事を更新していきます。

この記事は、
「花火はいつからあるの?」
「花火の歴史を知りたいな」
という方に向けた記事になります。

それと同時に
「花火の歴史年表があったらいいな」
という個人的な想いを形にした記事でもあります。

記事には書籍などから拾い集めた歴史をまとめてありますので、花火や火薬の歴史を詳しく知ることができます。

もくじ

花火の歴史がわかる花火史年表【火薬の発見から現代の花火まで】

この記事は長いので一気に読もうとすると大変です。
とりあえずブックマークしてもらい隙間時間に少しずつ見てもらえたら嬉しいです。

それではご覧ください。

紀元前221年  秦の始皇帝 万里の長城を建設  秦の始皇帝

万里の長城を建設し、その要所には「烽台」が設けられ、敵軍侵入の際には緊急通信用に「のろし」があげられた。その時、硝石は薪などと共に、燃料として使用されたらしい。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

紀元前2世紀  火薬と思われるものに関する最古の記録

火薬と思われるものに関する最古の記録 錬金術と煉丹術の著書である、淮南王劉安(わいなんおうりゅうあん)の著作「淮南子(えなんじ)」に硝石・硫黄・炭を配合することが書かれている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

664年  天智天皇3年  烽燧(ほうすい)またの名を「飛ぶ火」  のろし 烽(すすみ) 烽(とぶひ)  烽(とびひ) 烽火(のろし)

烽燧(ほうすい) またの名を「飛ぶ火」と言った。烽は煙であり燧は火を意味し、これを近代風に書き改めると、まさしく煙火である。日本書紀によれば、664年(天智天皇3年)九州・壱岐・対馬の三ヶ所に、はじめて唐の制度をまねて設置される。外敵の侵入をいち早く大和ノ国(朝廷)に告げるため、唐の制度をまねて北九州および朝鮮沿岸に設けられた。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

「のろし」は緊急通信用には欠かすことができない手段で、古い時代から日本にも原形があった。「日本書紀」の天智天皇3年の条に「是歳(ことし)、対馬嶋(つしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国等(筑紫の国等)に、防人と烽(すすみ)とを置く」とある。「烽」とは、のろしのことであって、中国で「烽台」と呼ばれていたのろしをあげるための通信台は、日本では「烽(とぶひ)」と呼ばれていた。これが廃止された平安時代中期には、狼烟が焚かれていた。薪に狼の糞を混ぜて火をつけると良く燃えたところから、この名前が出たのだという。のちには烽火(のろし)とも書かれた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

我が国における花火の起源もまた諸説まちまちではっきりしないが、天智天皇3年、唐の制度にならって西国に配置された「のろし」がはじまりと文献に記されている。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とびひ)を置く。草木を積み上げて火をつけ、昼は煙、夜は炎で合図をした。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

7世紀末 火薬の発明の起源  火薬の発明の起源

唐の初期、7世紀末の孫思邈(そんしばく)は「丹経内伏硫黄法」という著作のなかで「伏火硫黄の法」について述べている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

701年  大宝元年  烽燧(ほうすい)

烽燧(ほうすい) 大宝律令の完成によって40里(史家古宮氏によれば、古代中国の里数は現在の里数とは異なり、1日の行程が42里というのが普通で、現在の5倍位の距離が使用され、したがって現在の6~8里位の事である)ごとに峯・丘の上に配置され、2人の長と4人の部下が管理した烽燧の制度が、全く定まったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

712年  和銅5年  烽燧(ほうすい)

烽燧(ほうすい) 大和の春日、河内の高見とに増設される。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

796年  延暦15年  烽燧(ほうすい)

烽燧(ほうすい) 山城、河内の便利の良い所にも配置され、外敵すなわち唐・新羅・百済・高句麗諸国の襲来および西国諸国の反逆などの急変事態を、昼は煙を上げ、夜は火をもって、峯から峯へ西国の果てより都まで一刻も早く報じられる事となったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

799年  延暦18年  烽燧(ほうすい)

烽燧(ほうすい) 世が治まるにしたがって太宰府の管轄以外はことごとく廃止される。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

約800年 平安時代 爆竹の起源

爆竹と云うのは古来中国において正月元旦に、青竹を火にあぶって爆発させたもので、祝の儀式の一つとして行なわれ、荊楚歳時記に述べられているように、多分この音によって悪魔の退散を願ったものであろう。我が国においても、古来左義長と云われ1月14日夜、あるいは15日の朝、正月の松飾りなどを一定の場所に集めて焼いた火祭りがあり、この時などにも同様に音をだして祝ったもので、文献によれば、約800年(平安時代)の記録に正月15日、および18日に、火をたいて祭りをしたことが書き残されており、南北朝約1350年には盛んに行われたようである。現在地方に年中行事としてドンド、ドンヤキ、サイトウと言われて今なお、その名残りをとどめている。三河においても子供の頃、氏神の庭へ松飾りなどをもってゆき焼いたものである。この時、年長の子供達がしきりに、カンシャク玉を鳴らして楽しんでいた記憶がある。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,108項」

8世紀初め  硫黄

硫黄 続日本記によると、相模、信濃、陸奥の諸国から硫黄を献じたことがみえる。鎌倉時代初めには南宋に輸出されており、日明貿易でも重要な輸出物であった。足利義満が14世紀末に朝鮮へ使船を派遣した後、九州や中国の大名たちもこぞって使船を派遣したが、その進物の中には多量の硫黄があったという。硫黄は付け木のほか医療や火薬剤(花火火薬を含む)として以降重要な地位を占め、広く用いられるようになった。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

9世紀初め  発火剤

唐の末期、9世紀初めの清虚子(せいきょし)の「鉛こう甲辰至宝集成」には発火剤としてあげられている。ただし、これらは錬金、煉丹のためで、火薬の作成を目的としたものではなく、爆発力も弱く、すぐに火薬の製造に結びつく事は無く、あくまで「事実の発見」の域にあったようである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

894年  寛平6年  烽燧(ほうすい)

烽燧(ほうすい) 出雲、隠岐の両島のみに復活されたが、大陸との関係がしだいに緩和されるにしたがい、数年後には再び廃止されるにいたったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

烽燧(ほうすい) 烽燧はしだいに発達し、遂には便利な金属製の大筒となり、その下部には烏炉釜(うろがま)すなわち風呂の焚口のようにおなり、上部の筒にはヨモギ・ワラ・アシなどの節とか木の枝などが詰め込まれていたが、その末期には狼の糞が混ぜられ狼煙(ろうえん)への発達過程を示している。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

烽燧(ほうすい) 外敵の侵略も治まった894年まで約240年続いた烽燧は、やがて廃止された後も「飛火野」または「飛火ヶ岡」として地名となって名を残し、その中でも特に大和国春日(今の生駒山麓)の飛火野は古くより歌の中に読まれ、当時いかに多くの人の心をとらえていたかという事がうかがい知られるのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

9世紀  火薬の発明

火薬が発明されたのは9世紀の中国。その後、ヨーロッパで改良され15~16世紀には多くの人に使われるようになりました。羅針盤と活版印刷と合わせて「世界の三大発明」と言われています。 「参考資料 : ハナビリウム新聞,株式会社日本橋丸玉屋」

10世紀初め  火器

唐末から宋にいたる戦乱の中で火器が使用され、10世紀初めには原始的な「飛火」が出現した。このころになると、火薬の研究の主力は方士たちから専門の軍事技術者へと移り、また、北宋政府は北方民族に対抗するため、首都開封に火薬製造工場を設立した。火薬の研究は火器の発達と共に進められた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1180年  治承4年  江戸の開発

江戸の開発 秩父党と名乗る城東武士の棟領、江戸氏によって開発され、江戸という名が史上にあらわれる。源頼朝が伊豆の国で兵を起こし、いわば鎌倉幕府の曙(あけぼの)とも言うべき動乱の最中で、海に臨んだ自然の要塞を利用して江戸氏が高台(現在の皇居本丸の地)に館を築いた。その後、江戸氏の開発によって生まれた江戸は、1457年(長禄元年)太田道潅(おおたどうかん)によって「関東に甲たり」と言われた難攻不落の江戸城が築かれ、それが徳川幕府の成立によって日本の文化と政治の中心の地として繁栄の一途をたどったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1185年  鎌倉時代初期  蒙古族

中国大陸においては、蒙古族がぼっこうし、アジア大陸はもちろんのこと、ヨーロッパにまで及ぶ大帝国を建設し、さらに遠く朝鮮を経て、はるばる日本にまで、その触手を差し伸べようとしていた。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

12世紀初め  原始的な管形火器

原始的な管形火器が、陳規(ちんき)という人物によって発明された。これはその後改良が加えられていき、元代には金属製の物も考案された。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1225年  元仁2年 嘉禄元年  煙火と火薬

中国からイスラム諸国へ 第一段階として1225年より「煙火」と火薬の製造方法が南宋から伝わる。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1258年  正嘉2年  火器

中国からイスラム諸国へ 第二段階として1258年より各種の火器が元から伝わる。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

12世紀中期  三種の火薬

曾公亮(そうこうりょう)は兵書「武経総要」の中で「毒薬煙毬(えんきゅう)」「しつれい火毬」「火砲火薬」の三種の火薬の製法を相当詳細に記している。これらは毒性、爆発性、燃焼性の薬剤を一定部分量に混合したもので、これによって火薬は相当高度に発達していたことがうかがわれる。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

12世紀中期~末期  「煙火」の記載

馮家昇の著作「火薬の発明と西伝」に「煙火」の記載あり。これは花火の事である。馮は南宋の孝宋の時、12世紀中期から末期にかけて、中国で最初に花火が出現したとみなしている。当時は花火とはいっても昔からあった爆竹やねずみ花火に近いものが主流であったようで、王侯貴族に限らず庶民も街頭で盛んに遊んでいたらしい。また馮は呉自牧(ごじぼく)という人の「夢梁録」という本を引いて、当時、杭州の町には「爆竹や仕掛け花火の類」があったと述べている。宋代の花火の詳細は不明だが、いずれにしても当時すでに花火が各階層をつうじて広く親しまれていたことは間違いないようである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1274年  文永11年10月3日  鉄砲

高麗(こうらい・朝鮮)を征服した元軍は、高麗と連合軍を編成し、その数2万8千人・戦艦900隻に分乗して日本に向かった。大船団は10月5日には対馬西方海上に姿を現し、守護代宗助国(そうすけくに・対馬国のの守護代)はむなしく戦場の露と消えたのである。更に勢いに乗った元軍は、14日には壱岐を占拠し、急を知って沿岸を固める九州の鎮西武士の前に現れたのは、10月19日の事であった。翌20日、蒙麗軍は今津博多を足掛かりに、続々と上陸を開始したのである。この日、小弐景資(しょうにかげすけ)の指揮のもとに武士達は奮戦し、敵将劉復亭に矢傷をおわせはしたが、武士や馬は激しい音響を発して爆発する「鉄砲」や蒙古軍の打ち鳴らすドラや太鼓に驚き、また一騎で敵陣に突入し、一騎打ちをいどまんとし、かような戦闘習慣を持たない敵にまたたく間に包囲され、討ち死にする者が続出し、ついに博多・箱崎はその手中に帰し、武士達はあるものは太宰府に退却し、あるいは水城に篭もって翌日を待つこととなった。日暮れを待って、元軍も一応戦闘を中止して船で一夜を明かすこととなった。その夜、大風雨が元軍の船をおそい軍船は崩壊し溺死者は数知れず、その夜のうちに残兵をまとめて元軍は退いたのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

13世紀初め  火器の発達

火薬類の新開発ともども、一方では火器の発達も進んだ。「武経総要」には、爆発性火器の先駆けをなす「霹靂(へきれき)火毬」が載っている。北宋を滅ぼした北方民族王朝の金はこれを改良して、13世紀初めに鉄製容器の爆発性火器である「鉄火砲」(震天雷)を作った。さらにこれは金と南宋を倒した元(蒙古=モンゴル)に受け継がれ改良を加えられた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

13世紀  鉄火砲  中国の雪

モンゴル軍は、西はハンガリー、東は日本に至る世界各地の戦闘で「鉄火砲」を活用した。文永・弘安の役のさい、日本軍が「鉄砲」と呼び恐怖したのは、この「鉄火砲」であった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

中国で基礎を確立された火薬は、13世紀にイスラム諸国を経由してヨーロッパに伝えられることとなった。当時のイスラム諸国には火器は存在せず、火薬の知識は中国から学んだ。それは硝石の事をアラビア語で「中国の雪」という名前で呼んだことからも明らかである。これはイブン・バイサルという人物の編んだ「医学事典」に載っている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1274年  文永11年10月  文永の役

文永の役 フビライの発した動員令による元・高句麗の連合軍3万が襲来した。世にいう文永の役だが、日本が初めて外国の正規の軍隊に攻撃された大事件だった。この戦いでは、蒙古軍の集団戦法に加えて火薬を使った武器で、日本の武士団は大いに悩まされ苦戦を重ねた。北九州一帯に吹き荒れた大暴風で元軍の軍船の大部分が大破するという幸運に恵まれて、かろうじて敗北を免れた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

文永の役  蒙古襲来の様子を記録した「太平記 巻39 太元より日本を攻むる事」、6代将軍徳川家宣の政策顧問でもあった新井白石の書いた「本朝軍器考」に、文永の役に蒙古軍が鉄砲を使った事が記されている。白石は種子島への鉄砲伝来の事情などに詳しかったので、蒙古軍が使った火器を当時の鉄砲とはっきり区別をつけ、しかも、元よりももっと前の宋の時代にあった火砲の一種だろうと考えを述べている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1274年  文永11年  烽燧(ほうすい)

烽燧(ほうすい) 有名な元軍襲来という一大国難に遭遇し、長い間かえりみられなかった烽燧の重要性をいやがうえにも再認識せざるを得ない国状にみまわれた。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1274年  文永11年11月20日  蒙古来襲絵詞

八幡愚童記 元軍が博多の上陸戦に鉄砲を用いて我軍を苦しめ、我軍初めて火技の応用を知る。即ち鼓を打ちて兵刃既に交わる時、鉄砲と火毬(ひまり)の勢なる弾丸の走ること坂を下る車輪のごとく、霹靂(へきれき)すること閃々たる電光のごとくなるを、1度に2~3千投げ出したるに日本の兵多く焼き殺され、関櫓に、火燃えつきて、打消すべき隙もなかりけり。蒙古軍は逃げる時は鉄砲を飛ばして暗くなし、その鳴る音は非常に大きく、心が惑い肝をつぶす。目が眩み耳鳴りがして東西がわからなくなる。まさしく竹崎五郎兵衛季長の蒙古来襲絵詞にえがきだされている通りである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

火毬(ひまり)・火槍 この元の来襲によって、大陸の新しい火術の応用を知らされ、またこの時使用された元軍の「鉄砲」が「火毬(ひまり)・火槍」である。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

火毬(ひまり) 火毬(ひまり)とは如何なるものであったのであろうか。火毬にはいろいろな形・大きさのものがあり、それぞれによってその材料も異なっていた。すなわち燃焼・轟音・煙幕用などがあり、八幡愚童記にもあるように、退くときには煙幕を張り、また攻撃には焦夷・轟音を発すなど適当に使用していたようである。さて、この火毬の投てき器が鉄砲と言われたもので、日本攻略に使用されたものは小型の手綱式のものであった。火毬の作り方は火薬を丈夫な紙5~6枚で包み、麻で縛り、これに松脂・ろう等をとかして上からぬり、使用にあたっては焼いた鉄きりで外皮に点火するか、または鉄きりを外皮に突っ込んで発火させ、それを投てき機より投げ出したのである。当時使用された火薬は木炭のかわりに油脂分が使用され爆発性というよりはむしろ燃焼性が大きかったようである。火毬は打上煙火の玉の源であったわけである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

火槍 火槍というのは一端の開放された有底の筒で、これに火薬を詰めて使用したのである。紙をいく枚も貼って作った紙筒を使ったものを、飛火槍、竹の筒が突火槍で、これにたいし木筒を使ったものがマドファである。すなわち中国では槍というのは”小銃”のことであり、したがって火槍というのは口から火を噴く筒のことである。換言すれば、これは煙火の手筒である。火毬・火槍の火術が煙火のはじめとするのもこのためであり、全く当然のことでもあろう。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

13世紀後半の「蒙古襲来絵詞(えことば)」には鉄砲が見え、小石のような火の玉が尾を引いて飛んでいるさまが描かれている。これは火薬の中に石のような重りを包み込んで、大きな杓子のようなものに入れ、点火してから反動をつけて飛ばしたものと推測される。その後の資料に、中国系火器らしいものが散見されることから、日本にもある程度受容されたらしいが、結局、戦術転換をもたらすほどには普及しないままに終わった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1280年頃  後宇多天皇  狼烟(ろうえん)

狼烟(ろうえん) 奈良の春日山で従来の烽燧に狼の糞を用いた、いわゆる狼烟が初めて試みられ、以来それが戦乱時代という軍事的背景からまたたく間に諸国に伝わり、鎌倉時代には烽燧は狼烟となり「狼烟」と書かれるようになったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

狼烟(ろうえん) 狼の糞を焚火に混ぜるとその煙は風の有無にかかわらず天中高く立ち上り、他の煙とは容易に見分けられ、また遠くより簡単に発見することができるのである。多分これは元軍の襲来により、彼らの火術より会得したものであろうと思われるのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

狼烟(ろうえん) 特定の場所に配置された烽燧よりは、鉄挺(てつてい・鉄製の延べ板状の道具)で地に穴をうがち、そこへ枯草・乾燥草および木片を投じて、更に狼の乾いた糞を入れて火をつけた狼烟の方が簡単であり且ついついかなる場所においても通信することができ、烽燧よりもはるかに優れた煙が得られるとなれば、各武将が競って狼烟を使用することは当然であり、鉄砲伝来による西洋火術の輸入されるまでの約200年の合戦には、専らこの狼烟が使用され、大きく戦の勝敗を決定する重要性が課せられていたのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1281年  弘安4年5月  弘安の役

弘安の役 14万2千人の元軍が来襲し、今度はある程度の防備を整えていた日本武士団との間に2ヶ月近い激烈な戦闘が展開された。文永の役同様、北九州一帯に吹き荒れた大暴風でかろうじて敗北を免れた。文永・弘安の役で蒙古軍が使った、遠くから火の玉を飛ばして思うところを焼き払えるような新式の兵器こそ「鉄火砲」であった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

13世紀  元寇(げんこう)

元寇(げんこう) 日本の記録に初めて火薬が登場したのは、13世紀。鎌倉時代、日本にモンゴル帝国が攻めて来たときに使われた手榴弾のような爆発する武器「てつはう」だと言われています。この戦いを描いた絵巻物(宮内庁三の丸尚蔵館収蔵品)は国宝になりました。 「参考資料 : ハナビリウム新聞,株式会社日本橋丸玉屋」

1313年  正和2年  黒色火薬を製造

イギリスの哲学者・自然学者のロジャー・ベーコン(1214~1294)が、錬金術師のマークス・グレークスから聞いて書いたという論文をもとにして、1313年にドイツの僧ベルトールト・シュワルツが黒色火薬を製造したとされているが、あまりにも伝説的すぎて、信頼性に欠ける。それ以前に、すでに中国において、黒色火薬と思われるものが軍事用として広く使用されている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

13世紀後半  火薬の知識

イスラム諸国からヨーロッパへ 第一段階として13世紀後半にヨーロッパの知識人がアラビア語の文献から火薬の知識を得た。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

14世紀前半  戦争と火薬

イスラム諸国からヨーロッパへ 第二段階として14世紀前半にヨーロッパ各国はイスラム諸国との戦争の中で火薬を用いた攻撃方法を会得した。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

14世紀  火薬の使用量が増加

ヨーロッパでは諸国間の戦争のため、14世紀から火薬の使用量が増加してきた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

14世紀中期  大砲の原形

現在見る大砲の原形にあたるようなものも出現した。これらによって目標への命中率が高まり、火薬の威力が格段に強化されることとなった。こうした一連の動きの中で、火薬・火器にかんするノウハウが、花火の技術に応用されていったであろうことが容易に想像される。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

14世紀後半  大砲製造の技術が進歩

14世紀後半のヨーロッパでは、中国とは別個に大砲製造の技術が進歩し、1453年の英仏間の100年戦争の終結や、オスマン・トルコによるコンスタンティノープル陥落には、火薬・大砲の威力絶大なものがあった。火薬はこのように軍事用に使用されることが多かったが、その一方では土木工事など平和的にも利用されていたようである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

14世紀後半  最初の花火  花火の発明

最初の花火はイタリアのフィレンツェで行われ、その後またたく間に全ヨーロッパに普及していった。アラン・ブロックの「花火の歴史(1949年)」には、ヴァヌッツィオ・ビリングッツィオという人物の書いた「花火(1540年)」という書物が引いてある。そこではビリングッツィオの生まれ故郷のシエナやフィレンツェの花火が紹介されているが、それは聖ヨハネ祭や聖母被昇天祭などの祝祭の場で、見世物として供された火を吐く人形の如きものであったようで、今日見るような打ち上げ花火であったという確たる証拠はない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

ヨーロッパの花火も中国の場合と同じように、この時期の花火に関する資料は極端に不足しており、花火が発明された正確な日時や、誰が発明したのかという事はさっぱりわからない。小銃や大砲の職人が、片手間か余暇利用で造り出したのかもしれない。日本の花火の開発、発展の過程と引き比べて考えてみても、イタリアの鉄砲職人の手なぐさみが発明のきっかけとなったと思っていいだろう。もしそれに近い経過をたどって花火が作り出されたのだとすれば、花火の発明が記録に残されなくても別に不思議はない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

14世紀  黒色火薬

14世紀のヨーロッパでは、まだ黒色火薬は出現したばかりで、一般の人たちが入手することは難しかった。さらに封建時代の庶民には、自分たちで花火を楽しむ余裕などあるはずがなかった。領主や貴族といった一部の特権階級が、自分たちの権力を誇示するために領地や城などで打ち上げてみせたのだろう。花火は一種のステイタスシンボルだったのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

14世紀  噴出し花火

14世紀のイタリアではキリスト教の祭礼で噴出し花火のような仕掛け花火が使われていた。

1242年  仁治3年  黒色火薬の製法

イギリス人、ロジャー・ベーコンの科学技術全書に黒色火薬の製法記載。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1457年  長禄元年  燃土(ねんど)

太田道潅(太田持資)、江戸の地に築城。彼は築城に当たりつぶさに江戸の地質を調査し、その地質が火の着きやすい燃土(ねんど)であることを発見した。さらに、この燃土に麻殻の灰と硫黄とを混ぜてよく突き砕き、焼酎で練り固め、これを細かく刻んで充分に乾燥し、この火薬を木筒に詰めて空中高く打ち揚げたのである。これを見た人々は「流星」と言い、あるいは花の散るように見立てて「花火」とも言ったりした。太田道潅はこの煙火式火術を使って打ち続く合戦と合戦の間を戦い抜け、各地の敵を破っていったのである。当時、京都は応仁の乱以来の荒廃に一揆が加わり、鎌倉も戦禍に見舞われていたにもかかわらず、太田道潅の治める江戸のみが中世日本第一の無事泰平の世を、30年間も保ち続けていたのである。この全国的な戦乱の難を避けて、全国の文化・知識人は次々に江戸を慕って集まってきたのである。その結果、江戸はますます繁栄の一途をたどり、京都へ伝えられた中国の新知識はそのまま吸収され、道潅は中国の火薬の合わせ方を体得していったものであろう。彼の「燃える土」は硝石であったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

硝石製造法 太田道潅 遣明使の交通は頻繁であり、中国文明は京都を通過して江戸に輸入され、道潅はいつの頃よりか硝石製造法をおぼえ、狼烟(ろうえん)に応用改良を加えたのである。すなわち江戸の地質は海岸であり、したがって多分の窒素分に富み、これを風化・酸化または硝酸醗酵法のいずれかにより硝石を製造抽出し天下にさきがけ軍用に使用して、たくみにその戦国の世を勝ち抜け、川越・岩城などに着々と城を築いていったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1467年  応仁元年1月  狼烟(ろうえん)

狼烟(ろうえん)が始めて実戦に使用された記録は、1464年(寛正5年)将軍足利義政の将軍職引退にその端を発した足利家内紛の終結として、1467年(応仁元年)正月、京都を中心にして東軍細川勝元・西軍山名宗全が天下を二分して激突し、その後10年間泥沼の戦乱を繰り広げた応仁の乱であった。この戦いに於いて、特に新兵器を使用して西軍を撃破し、その有名をはせたのが三河の領主、讃岐守細川成之である。その新兵器が狼烟(ろうえん)であり火箭(かせん)であったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

防人(さきもり)として烽燧(ほうすい)の火術を体得させられた三河の住民たちは、さらに狼烟(ろうえん)の技術をいち早く身に付け、1467年には全国に先駆けて狼烟(ろうえん)の火術をみごと実戦の使用し、世にその真価を披露したのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1467年  応仁元年5月26日  火箭(かせん)

この蒙古の来襲後、200年を経た1467年(応仁元年)5月26日、京都を中にはさんで、全国の武士が西軍と東軍にわかれて激戦を開始以来10年間戦乱の世をみちびいた応仁の乱。しなわち、東軍の細川勢はまず攻勢にでて西軍山名方の中央部を圧倒的な兵力と新兵器とで攻めたてたのでる。新兵器それが火箭(かせん)であった。西軍山名方は堀川まで退却した。そのころ戦は京都の北部でも南部でも激しくその勢いをましていったのである。東軍が火箭で西軍の陣地になっている邸や寺社を焼けば、西軍も退却のさいみずから付近を焼き払い、一方で東軍が進めば他方で西軍が進み、かくて京都は焼野原と化していったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

飛火槍 火槍 この新兵器について碧山日録(へきざんにちろく)には次のように述べている。応仁の乱の時、細川成之勢が”飛火槍””火槍”を用いた。讃州守成之の営、城下のかためとなす。串櫓・飛砲火槍・戦攻の道具いたるところ、ことごとく備わる。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

中国火術 ところでこの細川成之が三河の領主であったのである。元来襲の中国火術がどうして三河に伝わり、この三河で発達したのかはいまだにはっきりしないが、西国事物起源に、”支那の火戯、欧羅巴に入るに及び、西国の火戯急にその歩を進めたり、蓋し支那人の火術に於ける、早く己に巧妙の域に達したるものなり”。と述べられているように中国においては火術はもっと早くから発達し、これが西洋に伝わると同時に、当然、我が国にも古くから伝わり、これがすでに500年も以前よりこの三河の地において研究されていたようである。その後戦国時代に至っては、もっぱら三河武士によって火箭が使用され、長篠軍記には1573年(天正元年)長篠城の戦の模様について記録されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1467年〜1615年 戦国時代 火箭 流星 ロケット

火槍から戦国時代には火箭がつくられ、三河武士が野戦にそのたけた技をあらわした火箭は流星とも云われ、竿の先に火薬をつめた筒をとりつけその噴出力によって飛ぶもので、現代流に表現すればロケットである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,113項」

1477年  文明9年  狼烟(ろうえん)

上杉の内紛の戦 狼烟(ろうえん)が重要な役割を果たしたことが合戦記に書き残されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1486年7月15日  文明18年  煙火の技術

太田道潅 道潅の火薬の威力に恐れをなした主君上杉定正が、道潅について事実を曲げ偽って悪く将軍足利義尚へ報告。定正は「隅田川の船中において煙火を揚げ、広く江戸・鎌倉の土民に見せられたし」と伝え、道潅はただ一人船に乗り、隅田川に出て煙火を揚げたのである。と、その時、鳴り響く太鼓の音を合図に道潅めがけて数百人が弓を射った。道潅は49歳で船中に深く倒れ伏したのである。また一説によると、主君定正に招かれて新館落成式のため相州槽谷で入浴中、その湯殿で謀殺されたとも言われているが、これも彼の煙火の技術をおそれた謀殺であった。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1492年  明応元年  狼烟(ろうえん)

室町幕府の将軍、足利義植と六角高頼の役 狼烟(ろうえん)が重要な役割を果たしたことが合戦記に書き残されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1494年  明応3年  狼烟(ろうえん)

将軍義植にその端を発した、六角・畠山の戦 狼烟(ろうえん)が重要な役割を果たしたことが合戦記に書き残されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1499年  明応8年  狼烟(ろうえん)

畠山一族の内紛 狼烟(ろうえん)が重要な役割を果たしたことが合戦記に書き残されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1507年  永正4年  狼烟(ろうえん)

両上杉家の内紛 狼烟(ろうえん)が重要な役割を果たしたことが合戦記に書き残されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1510年 永正7年 鉄砲伝わる

北条五代記 中国より我が国に“鉄砲”が伝わる 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1516年  永正13年  狼烟(ろうえん)

北条早雲の小田原城攻略戦 狼烟(ろうえん)が重要な役割を果たしたことが合戦記に書き残されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1528年 享禄6年 鉄砲製造

北条五代記 堺において鉄砲が製造されていた “鉄炮(てっぽう)”は中国の手銃(銅銃)のことで14世紀中頃から中国においては実戦に使用されていたと言われ長さ30〜40センチ重量2キロ内外の青銅製で簡単に持ち運びできるものであり、兵員を殺傷するというよりは轟音と閃光によって人馬を驚かせ士気を消失させる程度のものであったようである 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1531年  享禄4年  狼烟(ろうえん)

三好元長と細川高国の中の島天王寺の乱 狼烟(ろうえん)が重要な役割を果たしたことが合戦記に書き残されている。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1532年  享禄5年  天文元年  水上花火

アラン・ブロックの本には16世紀のイギリスでの花火が紹介されているが、それによると1532年、国王チャールズ5世が王室軍隊の花火師を徴用するための規則を制定したことや、王の戴冠式や結婚式、誕生日などには、テームズ川に船を浮かべて水上花火を楽しまれたことがわかる。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1540年  天文9年  花火製造術

イタリアの冶金学者最初の本「花火製造術」を出版 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1543年  天文12年8月25日  鉄砲・火薬の伝来 九州の大友一族

ポルトガル人が種ヶ島に漂着 西浦文集“鉄炮記” 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,47項」

大隅種ヶ島に漂着したポルトガル船をただちに府内に招いた大友義鑑は巧みに南蛮との公益をはかる。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,51項」

ポルトガル船が種子島沖に漂着して、食料や飲料水を求めた。船から上陸してきたのはアントニオ・ダモア他2人で、この時携えてきた二挺の鉄砲を16歳の若い領主種子島時堯(たねがしまときたか)に、2千金という大金で売り渡した。鉄砲・火薬の伝来がはっきり記録に残され、日本の社会に大きく影響を与える口火を切ったのは、日本人が始めて火薬の威力を目の当たりにした蒙古襲来から、実に270年も経った後の事だったのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

鉄砲記  鉄砲と火薬の伝来の時の事情は、慶長11年に薩摩の学僧、南浦文之(なんぼぶんし)が書いた「南浦文集」の3、「鉄砲記」に詳しい。「南浦文集」は鉄砲の伝来という重要な史実を記していることから、本来の書名よりも「鉄砲記」として世に知られるようになった。当時としては最新形式といっていいドキュメントタッチのルポルタージュである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

火薬の不幸  花火のルーツをたどるために不可欠な火薬について不幸ともいえる事は、火薬の伝来が常に鉄砲とセットで伝えられ、鉄砲ばかりが脚光を浴びて火薬が鉄砲の陰に隠れてしまう結果となったことである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

鉄砲記  「鉄砲記」鉄砲伝来の様子 五峯という中国人(本名は王直)、明の徽州(きしゅう)の生まれで、五島付近を根拠地にして中国沿岸を荒らしまわっていた倭寇の頭目であった。彼を介して鉄砲はポルトガルから日本に伝えられたのである。それがこれまでの日本の戦略・戦術を根底からくつがえしてしまう程の事件だったとは誰も予想できなかった。ちなみにこの時、後に天下をとった信長は9歳、秀吉は7歳、家康に至っては1歳であった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

鉄砲記  「鉄砲記」鉄砲について 南浦文之は鉄砲の形状について、他に比較すべきものが無いようなものだと記している。また彼は、今考えれば明らかに火薬だとわかる物を、鉄砲の中に入れる「妙薬」と表現している。南浦文之は、島津家久が領主だった慶長年間に活躍した薩摩の文化人である。薩摩は琉球と通じて中国大陸などからの外国文化に接するチャンスに恵まれていた。そうした環境にあった南浦ですら、火薬を「妙薬」といった表現でしか説明できなかった時代的・技術的背景は注目に値する。鉄砲と火薬に関する知識はきわめて限られていたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

鉄砲の製造法  種子島時堯 鉄砲伝来の後、若き領主種子島時堯は、単なる新し物好きだったからか、それとも先見の明があったからか、鉄砲の製造法を種子島の刀鍛冶、八板(やいた)金兵衛清貞(記録によっては清定)に、火薬の製造法を家来の笹川小四郎に研究させた。現在、鉄砲伝来については種子島より3年前、天文9年に平戸の領主松浦(まつら)肥前守興信が、やはり五峯こと王直から鉄砲の献上をうけたこととか、様々な異説がある。しかし、松浦興信は製造に向かわず、種子島時堯は困難を承知で製造に向かった。この違いが、一方を歴史の中に埋もれさせ、他方を歴史のひのき舞台に押し上げる結果となったのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

黒色火薬  鉄砲の製造方法の研究を命じられた八板金兵衛が、多大の犠牲を払って和製鉄砲を完成したことは、「後太平記」などの記録や物語で有名である。だが、同時に火薬製法である「妙薬」の「搗篩(つきふるい)・和合の法」(鉄砲記)の研究を命じられた篠川小四郎はどうしたか。後世、種子島と呼ばれた火縄銃に使用されていたのが黒色火薬であり、篠川小四郎が研究を命じられた「妙薬」が黒色火薬であったことは明白である。当時、日本の刀鍛冶の技術はすぐ鉄砲鍛冶に転向できるだけの水準に達していたし、さらに時代的に戦乱に明け暮れていたので、「鉄砲記」の記述にもあるように、火縄銃の生産は紀州の根来、泉州の堺、近江の国友、さらには関東にいたるまで、各地で飛躍的に伸びていった。この時代に作られて実戦に参加した和製火縄銃を満足させるだけの黒色火薬の量は、実に膨大な数量にのぼったことが容易に想像される。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

黒色火薬  火薬の成分のうち、火山国の日本では硫黄は比較的手軽に手に入る。現に南蛮貿易でも日本の特産品として大いに輸出されていた。また、木炭についても問題ない。しかし、主要部分である硝石は、日本では天然には産出されない。言葉も自由に通じなかった篠川小四郎が、ポルトガル人から硝石の製造法を教えられてすんなり理解できたとは思えない。単にポルトガル人が持っていた、正体不明の薬(実は硝石)と硫黄と木炭を混ぜると、黒色火薬が出来る事がわかっただけだったと考えた方が自然であろう。したがって、火薬が伝来した当初は、硝石は輸入に頼らざるを得ない状態であったと思われる。硝石は大部分中国から輸入されていたが、遠くシャムからの輸入に頼ることもあった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

鉄砲伝来 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

蒲生氏郷 種ヶ島に鉄砲が伝来した年にローマから鉄砲を購入し、その翌年1544年にはローマに人を派遣して大砲一門を購入させている 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,48項」

火縄銃 ポルトガル人、アントニオ・ダモア他2名、種子島に漂着し、火縄銃を伝える。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

鉄砲  鉄砲や火薬と一緒に、日本に花火が入ってきた。

鉄砲 種子島にポルトガル船漂着。鉄砲を伝える。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1544年 天文13年8月 国友鉄砲記

近江国友村において島津義久が将軍家に献上した鉄砲を真似て、鉄砲製造に成功した。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,49項」

1544年 天文13年 種島時尭(ときたか)

種ヶ島にもたらされた2挺の鉄砲は種島時尭が価をおしまずにゆずり受けるところとなり、矢板金兵衛にその製造研究を命じ、篠川小四郎に火薬の研究をさせ、1年後には苦心のすえ数十挺の製造に成功したのである 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,48項」

1548年  天文17年  狼烟(ろうえん)

1548年(天文17年)の2回にわたって駿河の今川勢と尾張の織田勢とが戦った、いわゆる、小豆坂の戦いにおいて、小国三河松平党が2大勢力にはさまれて、巧みな狼烟(ろうえん)によってその進退を決定し、三河の地を護り続けたことも有名な史実である。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

狼烟(ろうえん)の煙が、他の煙と異なるのは、いかなる理由によるものであろうか。元来、狼などの肉食動物の排泄物には比較的窒素分、すなわち、尿素・アンモニア・アミン類を多量に含み、それが長期間、風雨・日光にさらされて自然酸化され、また、土中のバクテリアによって酸化され、その結果硝酸塩に化学変化され、換言すれば、古くなった肉食動物の排泄物中には、硝石が含まれている事によるものである。当時、中国・日本における最も普通の肉食動物は狼であり、その古くなった糞を手に入れる事は比較的容易であったため、それが使用され、「狼烟」と言われるに至ったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1542年以降、西洋から鉄砲が伝えられ、同時に、硝石が我が国に輸入されるようになってからは、西洋火薬がこれにとってかわり使用されはじめ、煙硝を穴に詰め、また、筒に詰めて空に向けて発煙し、しだいに、信号法も複雑化すると同時に、煙火化し、以来、狼烟(ろうえん)はノロシと言われるようになったのである。そうして、ますますその重要性が増していったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

狼烟の花火 大竹の筒に薬末を盛り、中に絹一端を入れておき、火を伝えれば火炎が天に上る。絹も飄々として飛ぶ。これを昼の狼烟という。また流星のように大きく、その尾光が長く引くのを夜の狼烟という。ともに軍中に合図する方法である。狼の糞が一番良いが多くを手に入れることは難しい。代わりに花火薬のように樟脳、硫黄、塩硝、鉄粉などを調合したものを皮袋に入れ、それを竹竿の上に立てて燃やす。 「参考文献 : 和漢三才図会4,寺島良安 著 |島田勇雄 訳注 |竹島淳夫 訳注 |樋口元巳 訳注,平凡社,1986年7月1日」

花火はノロシに代えることが出来るものである。 「参考文献 : 和漢三才図会8,寺島良安 著 |島田勇雄 訳注 |竹島淳夫 訳注 |樋口元巳 訳注,平凡社,1987年11月1日」

1548年 大友氏

火薬の原料は1548年のパウロ安次郎の手紙に述べられているように、当時はもっぱら中国から大量輸入されていたのであるが、大友氏は中国ばかりでなく遠くインドからの輸入もくわだてたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,51項」

1549年  天文18年 国友村  2丁の鉄砲

管領細川勝元は法華宗の権威を利用して鉄砲を手に入れ、これをもとにして国友鍛冶に鉄砲の製造を命じた。当時、唐人との通訳にあたったのが法華の徒であり、種ヶ島においては1536年(天文5年)以降は法華宗が布教され、ついには改宗された歴史的事実がその真実性を裏付けている。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,49項」

種子島に渡来した2丁の鉄砲が、2年後には堺に渡り2ヶ所で製造され、さらに5年後には近江の国友村でも作られる。火薬の原料である硝石も、その製法が伝えられた。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1549年  天文18年  硝石

火薬の原料である硝石の製法が伝わる

1550年 鉄砲

種ヶ島から本土に伝えられた鉄砲は1550年、鉄砲が伝来した7年のちにはほとんど日本国中に行き渡ったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,51項」

1551年 天文20年 九州の大友一族

この頃にはポルトガルの商船が入港するほどになり大友宗麟は大砲2門を手に入れたのである。この大砲が“国崩し”と名付けられたのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,51項」

1555年  弘治元年  火薬に用いた硫黄

火薬に用いた硫黄 1543年に種子島に鉄砲が伝来されて以来、飛び道具としての鉄砲は戦国時代の戦いの様式を目覚ましく変えた。弘治元年(1555)前期の川中島合戦に武田方は、強弓800張に併せて鉄砲300挺を配したと、甲斐「妙法寺手記」にある。以降、大砲・鉄砲に用いる火薬が必然的に要請されたわけである。砲薬新書によれば、硝石7・硫黄1・木炭2の割合で三色火薬と呼ばれる黒色の火薬が作られていたという。硫黄が火薬の原料として貴重な物であったことは論を待たない。8代将軍吉宗の時代に大岡越前が「火薬第一容易ならざる大切の品」として取り締まったといわれるのも想像できるというものだ。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1558年 永禄元年 豊橋 天王祭

はじめて煙火が催されたことが記されている。
祭礼にあたり当時最も危険とされていた煙火を無事献上することの出来るのは、これこそ神の加護のあらわれとして煙火が盛んに献上されたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,68項」

1559年  永禄2年6月29日  鉄砲薬之方井調合次第  上杉謙信

上杉文書 「鉄砲薬之方井調合次第」という火薬調合の技術を解説したものがある。これら先進技術のノウハウは秘伝とされていたから、戦国大名にとってはのどから手が出るほど欲しい情報だったろう。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

上杉謙信 上洛した際に13代将軍の足利義輝から、鉄砲と「鉄砲薬之方調合次第」という火薬製造の秘伝書を賜る。上杉謙信はこれを機に、鉄砲の装備充実に努めたといわれる。実際、上杉軍は約300丁の鉄砲を所持し川中島の戦いでも鉄砲隊が組織された。ただ、上杉謙信自身は、鉄砲を「卑怯なもの」と考えており、積極的な導入は、謙信の養子の景勝の時代から。

上杉謙信 黒色火薬の原料(木炭、硫黄、硝石)のうち硝石は日本で採れなかった。原料は輸入に頼っていたので最大の輸入港である堺を抑えた織田勢が圧倒的に有利になった。もう一方硝石を確保できたのは難波港を抑えた本願寺勢力です。本願寺勢力は硝石(塩硝)の製法自体も学んでいた。上杉はこうした輸入ルートを持たなかったが、北陸の本願寺勢力とは仲が良く、当時本願寺勢力の拠点の一つで1570年ごろには塩硝の一大産地となっていた富山の五箇山も上杉の勢力範囲に近かったため火薬を大量に入手できたとみられています。山奥の五箇山が一大産地となっていたのは、塩硝の原料に蚕の糞を使ったから。つまり上杉勢は日本でも相当早くから鉄砲を使っていた可能性が高いです。

1560年 永禄3年 豊橋祇園祭

豊橋祇園祭では小規模ながらも流星、手筒が揚げられ、更に建物、綱火等も催され、これが城主の庇護のうちに次第に研究される。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,71項」

1560年  永禄3年  三州吉田天皇祭

三州吉田天皇祭で花火打ち上げ 吉田神社の祭りで、流星もしくは手筒のようなものが使用されたと言われる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1561年10月  永禄4年  川中島の戦い

川中島の戦い 上杉謙信の率いる兵が三方に分かれて善光寺平に進撃してきた。「謙信現る」のノロシは、山の峰を伝わって甲州に達した。3日後、武田信玄は甲府を出発した。信玄は道中、絶えず得ていたノロシの信号により宿敵越軍を粉砕せんとはかった。この時の甲州武田のノロシが、いわゆる赤いノロシである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

川中島の戦い 旧暦8月16日 謙信の率いる越軍が、千曲川の対岸妻女山に陣を構えた。その警報は紅葉に彩られた信濃の山々の頂に設けられた狼煙により、急遽甲府に伝えられ、信玄は出陣する。今日の花火製造地は、川中島の戦いの戦場となった北信の地と重なる。そして花火を職業としている人の先祖の中には、秋祭りの若衆として村に古くから伝わる花火製造の秘法から、自分の仕事にまで高めた人もいる。この戦いには、土着の人が数多く借り出されていたことを思うと、軍事用の狼煙が花火になんらかの影響を及ぼしている事は当然と思われる。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

川中島の戦い 富士之塔城址の城主は小田切氏で、川中島の戦いでは終始上杉方に付き村上氏と共に戦ってきた。見張り台や連絡の為の狼煙台に使われたと考えられる。 「参考文献 : 安茂里史 長野県長野市,安茂里史編纂委員会編,安茂里史刊行会,1995年」

富士之塔砦跡 位置と眺望から善光寺平の情報と甲山城跡を経由して飯綱方面の情報を旭山城に伝達する役割を担う武田氏の狼煙台であったと考えられる。曲輪の構築が山頂に限局されている点で、典型的な狼煙台の形態を示している。 「参考文献 : 長野市誌 第12巻 資料編 原始・古代・中世,長野市史編さん委員会 編,長野市,2003年」

北郷本城跡 浅川下流域が一望可能な本城郭は北郷古城跡(北郷集落)への情報伝達機能を具備していたものと推測される。 「参考文献 : 長野市誌 第12巻 資料編 原始・古代・中世,長野市史編さん委員会 編,長野市,2003年」

奇妙山ノロシ台跡 その構造から狼煙台や見物台的な性格が推測される。 「参考文献 : 長野市誌 第12巻 資料編 原始・古代・中世,長野市史編さん委員会 編,長野市,2003年」

千曲川右岸のノロシ山と奇妙山ノロシ台は海津城のネットワークとして交通路の監視と情報伝達の機能を持っていたと理解できるものである。 「参考文献 : 長野市誌 第12巻 資料編 原始・古代・中世,長野市史編さん委員会 編,長野市,2003年」

1566年 弘治2年 大友氏

インド総督の部下であり南蛮商人としても有名なフェルナン・メンデス・ピントは1543年以来1566年までの間に4回も府内(現在の大分市)をおとずれ、その他明国船もつぎつぎと入港し、大友氏は大量の火薬と鉄砲を手中におさめ鉄砲は単に輸入するのみでなく製造にも成功し、ピントの記録によれば1566年にはすでに三万挺を有していたと述べられているほどであった。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,51項」

1567年 弘治3年 10月17日 大友氏

1555年から1557年まで豊後の大友氏のもとにいた明国人の鄭舜功(ていしゅんこう)が帰国後書きあらわした”日本一鑑(にほんいっかん)”には、大友氏が硝石の独占輸入を図り、マカオに滞在中のニセヤの司教ドン・ベルシオール・カルネイ師に1567年10月17日で出した硝石斡旋依頼の手紙には、毎年良質の硝石を持ってきてくれるならば高価でそれを買い取りたいとか、その他の好条件が書かれていたと述べられている。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,51項」

1570年  元亀元年6月  調達依頼書

信長が近江の姉川で浅井・朝倉の連合軍と戦ったのは元亀元年6月だが、備蓄した硝石が底を尽き、信長の武将だった秀吉から堺の豪商今井宗久あてに、上質の硝石を大至急で送れという「調達依頼書」が残っているくらいだから、この時期の堺の豪商は硝石の調達・輸送に大わらわだったはずである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1572年8月  元亀3年  花火大会

イギリス エリザベス女王(1世)のための花火大会が催され女王が大いに花火を楽しんだことが紹介されている。女王はことのほか花火が好きだったようで、このような催しは後何回か行われている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1572年  元亀3年  富山の五箇山

富山の五箇山で作られた焔硝が石山本願寺の一向一揆に使用される。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1573年~1592年  天正年間  江戸期の花火

江戸期の花火 天正年間に櫟木民部少輔(いちのきみんぶしょうゆう)という人が南蛮まで出かけて行って新式火術と一緒に烟火(えんか)を伝えたという。南蛮がどこなのかは不明だが、これこそ花火なのであって、この時代の記録には花火の事を烟火、煙火などまちまちの書き方がしてある。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1573年~1592年  天正年間  筑波伊奈村の三本綱火

筑波伊奈村の三本綱火を松下石見守創始。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1573年  天正元年7月20日  火箭(かせん)

長篠軍記 長篠城の戦いで三河武士によって火箭(かせん)が使用されていたことが記録されている。城中ヘ火矢ヲ打掛是ヲ攻ム。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

火箭の進歩発達 このように応仁・天正の昔から三河武士によって使用された火箭(火箭)は、家康の「鉄砲を備えよ」という命令に対しても、各武士・火術家にとっては、鉄砲製造の困難さと鉄砲使用に慣れていないという理由もあって、口を揃えて火箭の有利なことを主張しこの方面の研究はますます繊細を極めてゆき、その結果火箭の技術がしだいに民間に伝わり、”その技に長ずるもの”が続出し、更に一層の工夫がほどこされ、ついに三河煙火としてその名を博すまでに進化していったのである。事実、軍用の火箭そのままが煙火化したものが”流星”であり、この流星が煙火の始まりであり、また、この流星は三河以外では見られない煙火でもあったのである。この火箭の技術は鉄砲術とあいまって、やがて噴出煙火ともなっていったのである。すなわち手筒・大筒さらに乱玉・スターマインなどの源はこの火箭の進歩発達したものに他ならない。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

燃土(ねんど) 元の来襲によって、新たに我が国に輸入された中国火術は、やがて烽燧(ほうすい)から狼烟(ろうえん)、火槍(かそう)へと進歩し、その後、西洋火術、すなわち鉄砲の伝来により狼烟は狼煙(のろし)となり、火槍は火箭(かせん)となり、この両者が組み合わされて江戸時代には流星を作り出した。狼烟から狼煙になる過程において、一つの重要な歴史的事実が存在しており、これが太田道潅(おおたどうかん)によって発見された「燃土(ねんど)」である。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1575年  天正3年5月1日  ノロシ

長篠城の戦 奥平九八郎貞昌率いる僅か500名の守る城を、天下に名だたる武田の軍勢、武田勝頼の15000名の兵が包囲。鳥居強右衛門勝尚がこの武田の囲いをくぐり抜け、徳川家康のいる岡崎城へ行き援軍を要請。家康より要請を受けた織田信長と共に長篠城へ。途中、雁峰山の頂からノロシをあげ、長篠城の九八郎貞昌に援軍が来たことを知らせた。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1575年  天正3年5月  鉄砲隊

天正3年5月には戦略・戦術はもちろん、それまでの築城法まで根底からくつがえしてしまう長篠の戦いが起こった。この戦いに織田・徳川の連合軍は3千挺の鉄砲隊を使って、それまで無敵と言われた武田軍団を徹底的に打ち破った。ひと口に3千挺の鉄砲隊などというが、この鉄砲隊の訓練・実戦で使用する黒色火薬の消費量は、想像を絶するものがあったろうし、それに伴って硝石の輸入量も膨大なものになったに違いない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1575年  天正3年  流星

流星が初めて作られる。埼玉吉田椋神社説。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1576年  天正4年  硝石の輸入

硝石の輸入 九州の大名大友宗麟(おおともそうりん)が、天正4年に「国崩し(くにくずし)」と名付けられた大砲を日本で最初に輸入したように、独自の南蛮貿易を展開して硝石を直接輸入していたような場合もあったが、これは大友氏が地理的に貿易をするのに有利な九州という土地の豪族だったからで、一般の大名であれば、堺商人のような貿易の専門行者に頼らざるを得なかったのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1576年  天正4年  石火矢を献上

豊後大友氏に南蛮人が石火矢を献上。大砲の初伝来。諸説あり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1581年  天正9年正月  安土城下で爆竹

織田信長安土城下で爆竹をならし調馬訓練をやる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1581年  天正9年  長野の花火のルーツ

織田信長が伊那谷に攻め入る際に狼煙網を完備したのが長野の花火のルーツと言われる。

1581年  天正9年  安土城築城祝いに爆竹

織田信長、安土城築城祝いに爆竹を使用。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1582年  天正10年4月14日  花火仕掛

大分県臼杵のイエズス会の聖堂でポルトガルの宣教師が花火仕掛で明るい色を出した。宗教流布に花火を利用する話は多くの例がある。鎖国前にこのようなことが行われたことは注目したい。日本の記録にはなくキリスト教の伝道史に残る。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1585年 天正13年 津田流砲術

秀吉の三萬の兵が根来を襲い芝辻清右衛門は堺に戻って鉄砲鍛冶としてその名声を広め、津田監物の砲術は津田流として世に伝えられたのである 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,49項」

1585年 天正13年 松ノ屋筆記 佐竹対陣

”敵陣に花火を焼立てければ、味方の若侍共花火をくくりて見るも同じく焼立てける”「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,55項」

戦陣の慰みに煙火 水戸で戦陣の慰みに煙火を打ち上げる 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

陣中花火 皆川山城守と佐竹衆が陣中花火?をやる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1588年  天正16年10月20日  江戸期の花火

江戸期の花火 禁中の御湯殿の上に奉仕する女官が交代で付けた日記「御湯殿上日記」天正16年10月20日の条には「一条殿より花火参る」という記載がある。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1589年  天正17年7月  仙台の花火

伊達政宗 米沢城で花火を鑑賞。唐人が献じた花火を4回にわたって楽しんだ。7日、8日、14日、16日の4回。中1週間おかれているのは、改めて作ったものと想像されている。いずれにせよ噴出し花火、それも大型のものではなく、現在の玩具に類するものであったに違いない。仙台には、砲術家の末裔といわれる芳賀銃砲火薬店と、火術師として南蛮櫟木(いちのき)流の井上家があった。井上家が育んだ伝統が、特に「水火戯(みずはなび)」の技法が今日仙台の花火に伝わっている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1592年〜1598年 文禄元年〜慶長3年 朝鮮出兵

秀吉は朝鮮に出兵し、いわゆる朝鮮の役がはじまったのである。日本軍は全長49.5cm・口径14cm・重量2㎏の薩摩筒といわれる騎兵銃を使って大いに奮戦し敵を打ち破ったが、朝鮮・明連合軍の仏狼機(フランキ、すなわち大砲のこと)には相当の被害を受け、特にフランキを使用した水軍は日本水軍を破局におとしいれていったのである。
「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,53項」

1595年~1723年  文禄4年~享保8年  硝石の製造

硝石の製造 培養土を作り抽出する方法で硝石を製造したのは、信州の木曽と中越の五箇山の2ヶ所。享保8年までの間、毎年815貫製造しており、時には尾張藩に納めています。 「参考文献 : 煙火,竹内武雄編,竹内武雄,1989年」

1595年  文禄4年  硝石培養土

秀吉や家康の領地であった木曽谷で硝石培養土の製造開始。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1597年 慶長2年 京都で煙火

堺からのポルトガル人が京都で煙火を天覧に供す。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,55項」

1597年  慶長2年  仙台藩

毛利大八(天正11年渡航)帰国。毛利一族で外国に14年間も砲術、特に大筒の技術研究をしたという、大八の業績があまり知られていない。わずかに弟子の井上雅安が、仙台藩で煙火の技術を伝えたと言われている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1598年  慶長3年8月18日以降  火術・砲術家

秀吉の死後、江戸時代の太平な時期を迎えたが、江戸時代初期の大名は、戦場で大きな威力を発揮した鉄砲・火薬の重要性を、いやというほど知り抜いていた。全国の大名は実戦経験を持つ優秀な技術者を召し抱えようとやっきになった。このような時代的な要求もあって、それまでにはなかった火術・砲術家の誕生を見るに至った。彼らはそれぞれ一流一派を興し、銃砲の取り扱いだけではなく、後に花火師を生む下地となる焔硝の製造法についても流派ごとに秘伝を持っていた。江戸時代に興った火術・砲術家の主な流派をあげると、一火(いつか)流、稲富(いなとみ)流、外記(げき)流、萩野(はぎの)流、中筒(なかづつ)流などがある。このうち徳川幕府に最初に直接召し抱えられた直参火術家は、元和元年の大坂夏の陣のとき以来の稲富流の開祖、稲富重次である。さらに慶安元年11月には田付(たつけ)流の田付四郎兵衛と、外記流の井上外記が新規に召し抱えられている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

町人の火薬の専門家 「御実記」とも呼ばれている、成島司直によって嘉永2年に完成された「徳川実記」によると、毎年の恒例であった芝御浜御殿(現在の浜離宮)での「のろし揚げ」は、田付流と外記流が受け持って催されたと記載してある。鉄砲の伝来以来、戦略・戦術は鉄砲を抜きにしては考えられなくなり、火薬も大切な戦略物資で、これが取り扱えるというだけでエリートとしての条件を備えたことは確かだったろう。また、戦場の経験を生かして火薬が扱える人も江戸時代の初期には生き残っていた。こうしたことが、武士の火術・砲術家とは異なる町人の火薬の専門家としての花火師が登場する一つの条件となったのであろう。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

花火師の誕生 戦国時代に実戦で火薬の取り扱いを習得した下級武士は、一流を興して火術指南をすることもできず、さらに徳川家に敵対した大名の家臣だった場合には、そう簡単に再就職の道は無かったろう。そういう人たちが、町人社会の仲間入りをして、火薬を扱えるという技術を生かして花火師に転身したという事も、容易に想像がつく。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

江戸時代初期には、火薬の主材料となる硝石は重要な戦略物資だったから、一般の市中に潤沢に出回る事は無かった。そのため、平和な時代の娯楽としての花火の材料に硝石が使えるようになるためには、なおある程度の年月が必要であった。だが、大型花火は無理としても、少しの火薬でできる小型の花火、例えば線香花火のようなものなら出来たはずである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

線香花火 現在では炭の中に松煙を混ぜるなど、色々な研究がされているが、線香花火が発明された頃には、ただ、黒色火薬をこよりに撚り込んだだけの単純なものだったに違いない。線香花火を昔は「手牡丹」と呼んだこともあった。夜間の照明もままならない時代だ。手から撚り出した牡丹のように見えたに違いない。現在では夏の風物詩にもなっている線香花火だが、残念なことに、いつ誰が発明したのか皆目わからない。火薬の扱い方を知っていた人物が、何の気なしに造り出したものが今に伝えられたと思った方が自然なようである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

打上花火 大名が配下の砲術家や火薬職人などに作らせた花火が武家花火。武家花火は信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火が武家花火。

仕掛花火 鍵屋、玉屋のような花火専門業者の花火は町人花火。色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した花火が町人花火。

16世紀  西洋花火

イタリアで育った西洋花火の伝流が、ポルトガルのイエズス会の宣教師によって、日本に上陸した。禁教なので日本には一切記録は無いが、ポルトガルの2つの記録「イエズス会日本年報」と「フロイス日本史」に載っている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

15世紀末~16世紀末  戦国時代  鉄砲

戦国時代 日本は世界で一番鉄砲を持っていたと言われている。 「参考資料 : ハナビリウム新聞,株式会社日本橋丸玉屋」

17世紀  花火の学校

イギリス 17世紀に入ると花火の技術を教授する学校がゲルマン諸国、ポーランド、スウェーデン、デンマークなど北方の国々に生まれた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1600年 慶長5年 稲富伊賀守直家

豊橋を中心とした東三河煙火に対し西三河には岡崎を中心とした稲留流煙火がある。その起源に就いては、稲富伊賀守直家後の稲富一夢斉が元祖であると言われている。稲富伊賀守直家と言うのは丹後(現在の京都)の生まれで、祖父稲富直時が佐々木義国から伝授された中国砲術に、さらに創意をこらして稲富流砲術を開祖し、はじめは一色家に仕えていたが、その後細川幽斉の鉄砲指南役となった。ところが、1600年(慶長5年)関ヶ原の役の直前のこと、石田三成は細川幽斉を味方に加担させるため大阪肥後屋敷にいた細川忠興の夫人を人質にすることを企て、軍勢をもって包囲した。忠興夫人は屋敷に火を放ち、愛児を刺殺して無惨な最後を遂げてしまったのである。この時夫人を警護していた稲富直家は石田勢の来襲を知るや、いかんとも成し難く、ついその場より逃亡してしまったのであった。直家はその後細川家より、お構い、すなわち、追放されてしまった。直家は諸国を流浪し、仕官の口をさがしたが各大名は細川家のてまえもあり、仲々召し抱えようとはしなかった。ところが、そうした大名達に混じって徳川家康のみはかねてより密かに直家の非凡な才能と技術を惜しみ、おりあらばと、その機会を待っていたのである。家康は早速八方に人をやり、遂に浅野家を仲介として細川家をうまくとりなし、直家は徳川家に召し抱えられることになった。家康は直家を玉造奉行の下におかれた鉄砲方与力の4人の中の1人に加え鉄砲鍛冶の指導にあたらせたのである。この様なある日のこと、同じ鉄砲方の井上外記と技術上の口論から直家は外記を斬り出奔しなければならない事態を招いてしまったのである。その後、直家は捕らえられて尾州家(尾張三河)徳川家へお預けの身となったのである。著者らは、多分外記が直家の「細川家お構いの件」を持ち出して直家をはずかしめたのではやいかと思うのである。若しそうでないとするならば、如何に技術が優秀とは言え、封建時代のさ中のとこで、捕らえられれば当然死罪はまぬがれないところである。それが“お預け”と言った軽罪ですまされたのには矢張り上記の様な、それ相当の理由があってのことでなければない。それは兎も角として、尾州家(尾張三河)ではこれ幸いとばかり直家を鉄砲指南役として従来からの萩野流砲術のほかに稲富流砲術が加わり、大筒、小筒の製造その他技術が飛躍的に進歩し、鉄砲伝来以来後の火術は直家に至って一段と進歩の度を加えていったのである。直家は入道して一夢斉と名乗り、そのため稲富流のまたの名を一夢流ともよばれその伝書は“一流一返之書”と言われ、諸国の鉄砲術家達からこの道の元祖とまで言われるに至った。
この稲富流の砲術、火術はうち続く徳川300年の泰平のうちに次第に軍事用から平和の煙火へと変化し、農民の五穀豊穣を願う心を秘めて稲留流煙火-イナドメ-となり更に分派して稲穂流をはじめその他多数の流派を生み出していったのである。
当時は、尾張名所図絵(後編巻の三)の清洲本町五条川岸で催された、牛頭天王祭花火之図、に描かれているように、舟上で煙火を揚げたり川岸から川の中に張り出された櫓を設けて立火をたてたようである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,74〜75項」

1600年  慶長5年9月15日  開戦のノロシ

関ヶ原の合戦 午前0時、大垣を出発した石田光成の西軍が雨中を関ヶ原に入り、約19万の大軍が布陣し終わった午前3時頃、垂井の宿を進んでいた徳川家康の率いる約7万の軍は、関ヶ原に入ると直ちに桃配山に本陣をおいて相対したのである。午前8時、濃霧のようやく薄れかかった頃、東軍の伊井・松平勢と、西軍宇喜多勢との激しい銃声によって、天下分け目の大決戦の火ぶたの幕が切って落とされた。東軍黒田長政がすかさず、開戦のノロシをあげたのはこのときである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

川中島、長篠城、関ヶ原 一筋のノロシにかけられた戦国武士の悲哀と栄光は、単純な烽燧(ほうすい)から狼烟(ろうえん)、更に、鉄砲の伝来とともに火薬の合わせ方が伝えられ、硝煙いわゆる狼煙(ノロシ)の研究・発達となり、ますます複雑化の歩を進め、ノロシは黄黒のほかに、ついには、有機性有色物質を空気中に散らすもの、また、夜間の照明用、信号用には星が応用されるほどになっていったのである。すなわちノロシはやがて、火箭(かせん)と相まって流星を生みだしたのである。このノロシ・流星に関する秘伝書が、世に言う「××流 合図の覚」「××流 秘伝書」であり、武術としての誇りと秘密性を保って戦国の時代に伝承され続け、その挙句の果て、遂に煙火となったのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1600年  慶長5年8月  流星

徳川家康 関ヶ原の戦いで石田三成、流星を合図に使用。この伝統が現在滋賀県坂田郡米原町に残り、流星として今も時折打ち揚げられる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

狼煙 石田三成、関ケ原の合戦において狼煙を使用。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1600年 慶長5年 京都で煙火

日本との貿易を許可されたオランダ人がそのお礼として、“煙火を献ず。泉州堺に上陸させしなるべし。その時京都に於いてその技を天覧に供したり。”「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,55項」

花火供覧 ポルトガル人 京都で天皇に花火供覧。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1603年~1868年  江戸時代  火術・砲術家

江戸時代に緊急通信用の「のろし」を受け持ったのが火術・砲術家だった。花火には絶対に手を出さなかった火術・砲術家だが、軍事用の烽火(のろし)を上げる事には技術を競った。そうすることによって、自分たちの権威を一段と確固たるものにしていたのである。完成期に入った烽火は、単に火を燃やして煙を出す単純なものだけではなく、いろいろな色の煙を出したり、色つきの絹の布切れを打ち上げて通信するといったものもあるなど、技術的には格段の向上を示した。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1603年~1867年  慶長8年~慶応3年  火薬技法

徳川時代の慶長8年~慶応3年に至る265年間、大名がその火薬技法を民間に保存させ、祭典行事として伝承することによって、ひそかに保護育成していた例は各地にみられる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

火薬の技術 そもそも火薬の技術が日本に入ってきたのは戦国時代と伝えられている。その後、江戸時代に神社の祭礼に奉納する風習が奨励され、火薬の取り扱いを氏子である百姓や町民に担わせたため全国的に広がったと考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1605年頃  慶長中頃  和製硝石

和製硝石 戦略物資としての硝石を大部分輸入に頼っている間は、花火が登場する余裕が無かった。国の興亡にかかわる硝石だったのだから、観賞用としての花火に回される事は無かったと言っていい。秀吉政権の頃から硝石の輸入はどんどん下火になってきて、慶長年間の中頃から、色々な資料に和製硝石に関する記録が現れるようになった。これは世にいう文禄の役(文禄元年)と慶長の役(慶長2年)の2度にわたる秀吉の朝鮮出兵の際に、捕えて連れ帰った明軍の捕虜から、硝石の製造法を手に入れる事が出来たと伝えられている事とも関係があるかもしれない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1606年 慶長11年 僧文之

“鉄砲記” 種ヶ島につたえられた鉄砲は二つの経路を通って関西地方につたえられたもので、一つは紀州根来寺の津田監物により、もう一つは堺の商人橘屋又三郎によって運ばれたのである 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,48項」

1612年 慶長17年 沢田四郎右衛門

足助八幡社に奉納された扁額、「扇的打図」に「尾州稲留流先生当国住岩神(やがみ)村沢田四郎右衛門尉享行年七拾八歳」とあり、その間の関係をよく物語っている。この岩神村と言うのは現在の東加茂郡足助町盛岡大字岩神の事である。沢田四郎右衛門によって西三河に伝えられた、稲留流の煙火は非常な勢いで西三河一帯に広まる。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,75項」

1613年  慶長18年  花火大会

イギリス 国王ジェームス1世が、デンマークの優秀な技術を導入し、1613年、娘のエリザベスの婚姻に際してテームズ川で大花火大会を催した。この頃から前にあげたような花火先進国の成果に学ぶことが熱心にすすめられたようで、主として政府の軍需品部が担当し、国家的な行事の際には大活躍した。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1613年  慶長18年8月6日  花火の記載

木村高敦が寛保元年に書いた「武徳編年集成」に、花火の記載あり。平戸に商館を作ったイギリス人ジョン・セーリスが、国王ジェームス1世の国書を携えた正式の使者として駿府につき、8月3日に家康と会い、陣羽織にする布地や鉄砲、望遠鏡などを献上し、6日には家康に花火を見せたというのである。この花火、筒を立てて黒色火薬を詰めて点火し、噴き出す火の粉の乱れ飛び様を観賞したものだろうと伝えられている。セーリスが長崎から連れて行った明国人(中国人)が見せたものだが、花火自体がイギリスのものだったのか中国のものだったのかは定かではない。とにかく家康が花火を見たことだけは確かである。この時期に日本に花火が登場したとはいえ、その大部分は外国製であり、観賞に堪える大きな花火は大半を外国人が打上げていた。これから考えてみても、この時期は初期の輸入花火時代として位置付けてもいいようだ。世界に誇れる日本花火の出現には、まだかなりの歳月が必要だったのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

駿府城で煙火 駿府城二之丸に於いて家康をはじめ居ならぶ諸侯の見物する中で、明の商人が連れてきたイギリス人が煙火をあげたのである。この時の煙火は”立花火”と述べられているように、筒に火薬を詰めたものであったようである。”管中秘策 花火の上手なる条、徳武編年集成、駿府政事録”「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,56項」

立火を見物 イギリスの高官ジョン・セーリスと共に家康が江戸城二の丸で立火を見物したことが我が国における花火の歴史の始まりともいわれている。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

徳川家康 江戸城二の丸で立火を見物 唐人が施工 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

徳川家康 駿府城で花火観賞。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

徳川家康、駿府城で日本人初の花火見物。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1613年  慶長18年8月  煙火に用いた硫黄

煙火に用いた硫黄 花火が日本に渡来したのは慶長の中頃、伊毛達須という唐人が伝えて慶長18年(1613)8月、当時修築中であった江戸城内において上覧に供してよりはじまるといわれている。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1614年7月 慶長19年7月 大阪冬の陣

方広寺大仏鐘銘事件にその端を発した大阪冬の陣の幕が切って落とされ、徳川・豊臣両家はイギリス・オランダより大量に買い入れた鉄砲・大砲・火薬を使って戦う。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,56項」

1614年 慶長19年 ネズミ煙火

文献によれば1614年(慶長19年)には、すでに、江戸の町においては、線香煙火および、ネズミ煙火が売り歩かれていた。三河においてこれらの煙火が、いつ頃から造られ、また、鑑賞に供されたかは今のところ判然としないが明治以前、すなわち、江戸時代から存在していたことは事実であり、1659年(萬治2年)には吉田出身の鍵屋が煙火を打ち揚げた事実から考えてみるに、矢張りそうとうに古くから製造され、楽しまれていたとみなければなるまい。ネズミ煙火は、火薬を紙でよってそのままの棒状のものと、これをまるく輪にしたものとがあり、前者が筆ネズミと云われるもので、点火された場合、尾部(後部)を左右に振りひきずって前進するところから、丁度これをネズミに見たててこのように、名付けられたものであろう。これに対し、後者はクルクル回転して左右前後に不定の方向に進むところから、舞ネズミと云われたものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,105項」

1614年 慶長19年 煙火師

1614年にはすでに煙火師があらわれはじめ、子供相手の“撚(より)花火”“線香花火”などが作られ、それらを売り歩く煙火売りの姿が巷に見られるまでになっていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,56項」

1615年 元和元年4月 大阪夏の陣

真田三代記にはこの大阪夏の陣において、豊臣方の真田幸村は日頃ひそかに研究しつづけた“地雷飛龍火”・“火銅連火”を平野の辻堂にかけ、家康を危地におとしいれたことが述べられている。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,57項」

1620年  元和6年  花火の奨励

徳川家光 花火の奨励をはかる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1623年 元和9年 将軍家光

戦国の世もようやくおさまりはじめた1623年(元和9年)将軍家光は花火の奨励をしその結果、“めずらしいもの”好きの江戸市民は煙火にとりつかれはじめ、ようやく江戸の街にその流行のきざしがみられはじめ、それはやがてすさまじいまでの流行となってゆくのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,57項」

花火を推奨 徳川家光 花火好きで花火を推奨 城内でねずみ花火や流星を見物。砲術家などが線香花火や撚り花火などの玩具煙火を販売。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1624年  寛永元年  米子硫黄鉱山の歴史

米子硫黄鉱山の歴史 鉱床は上信火山帯の中の四阿(あずまや)火山のカルデラ内に生成された米子小串型鉱床と呼ばれ、全国的にも重要視されていた鉱山である。採掘の歴史・資料によると寛永(1624~)の頃から掘られていたらしい。米子は運上金額の入札により請負人となった者が一定の年季の間に採掘した請山であった。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1635年  寛永12年  花火解説書出版

イギリス、ロンドンで花火解説書出版「Pyrotechia」 ロケットの利用法をいろいろ説明している。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1635年頃  寛永12年頃  砲術師

各雄藩の砲術師、花火公開を競う? 隅田河畔にあった下屋敷(別荘)で御三家(尾張、紀伊、水戸)を始め、仙台、金沢など雄藩の砲術師たちが、火薬を平和利用して花火を揚げた。庶民もそれを楽しみに見物した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1639年  寛永16年夏  花火観賞

徳川家光 西の丸、酒井忠勝別邸、隅田川で花火観賞。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1640年  寛永17年  祭礼花火始まる

九州立花藩竹飯八幡宮の8月15日満月の祭礼花火始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1644年 正禄元年7月15日 徳川家光

家光は“関ヶ原追懐”のため煙火を隅田川であげることを許可し、これが江戸両国の川開きのもとになると同時に、一方ますます発展した煙火はこのときすでに“流星”“大からくり”などとしてあげるまでになっていたのである。
煙火ははじめは硝石・硫黄・木炭の三種類が火薬としてつかわれ、これを竹筒につめ数本を束にした、いわゆる立火式のものであり、それが次第に車のまわりに取り付けられてその噴射力によってくるくる回転する火車(大からくり)とか、綱をわたってはしる綱火などが工夫され、また三種類の調合を変化させるなどして、いろいろなものがあらわれ、その他各藩・幕府などの鉄砲組などの中には、信号用の合図火術から娯楽観賞用の煙火の研究に進むものなどがでて、我が国独特の打揚煙火が完成されていったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,57項」

1644年  正保元年  花火の調合法

上水内郡豊野町石区 花火の調合法を記した「正保元年 花火法 井上氏印」が現存。花火が一般的に盛んになるのは享保頃(1716~1736)からといわれているから、この「花火法」はかなり初期のものといえる。豊野の花火法の中に長野市古里地区金箱の地名の記載あり 金箱から伝えらえたものであろうか。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1644年  正保元年  隅田川で花火

江戸 隅田川で民間花火が揚げられる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1648年  慶安元年6月  禁止令

幕府 火災を恐れ、流星やねずみ花火などを町内で揚げる事に禁止令を発する 1回目 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

江戸市中花火遊び禁止令 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

慶安元年以降相次いで江戸市中における煙火の打上が禁じられた為、煙火は次第に地方へと広がっていく事になる。 「参考文献 : 南信州の煙火 火の芸術に魅せられた男たち(「綿五」原家コレクションを中心として),飯田市美術博物館 編,飯田市美術博物館出版,2014年7月」

江戸市中においてネズミ花火など製造禁止。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

江戸の花火 江戸中でねずみ花火、流星、吹出(立火)等が盛んに行われた

1652年  慶安5年8月  禁止令

幕府 1回の禁止令では徹底せず、また花火遊びが目立ったので、2回目の花火の禁止令が出される。市中で花火遊びを禁止するおふれがたびたび出たという事は、なかなか守られず火事の原因になったのだろう。大川(隅田川)や海岸で消費することは許された訳で、花火の人気がわかる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1657年  明暦3年  明暦の大火

「明暦の大火」江戸市中の大半を焼失。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1658年〜1688年 萬治年間〜元禄年間 豊橋祇園祭

萬治年間から元禄年間にかけては一大発展をし、これが鍵屋によって江戸に紹介され、江戸煙火の起源をなすと同時に三河煙火の名声が日本国中にひろまっていったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,71項」

1659年  万治2年  鍵屋弥兵衛

鍵屋 葦の管に火薬をねってつくった小さな星を入れ、星が飛び出す仕掛けを作り、現在の打揚煙火の基が作られたりしたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,58項」

鍵屋弥兵衛 大和の篠原村から弥兵衛という男が江戸へ出てきた。弥兵衛は火薬が扱え、葦の管の中へ火薬を練って丸めた小さな星を入れて売り出した。線香花火よりいくらか大きい玩具花火だと思えばいいだろう。その頃にはもう火薬の主要原料の硝石は、木挽町(現在の東銀座)あたりの両替商で、茶や紙などと一緒に加賀地方などの特産品として売っていた。それまでにも江戸では線香花火やねずみ花火は売られていた。花火は庶民に根強い人気を持っていた。特に弥兵衛が火術家の烽火からヒントを得て開発した花火は、それまでの小さな花火にはなかった美しさを持っていたので売れに売れた。弥兵衛は両国横山町に店を構え「鍵屋」を屋号として、代々弥兵衛を世襲した。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

江戸鍵屋 大和国(奈良県)から江戸に出て花火屋を始める 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

江戸鍵屋 星が飛び出す花火を作る 現在の打ち上げ花火の元祖 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

江戸の花火師一門鍵屋 江戸で花火が盛んであると聞き、大和国篠原村から江戸へ出てきた。鍵屋は日本橋の横山町に店を持ち、幕府の御用商人として、また明治維新後も第二次世界大戦前まで存続した唯一の江戸の花火屋であった。篠原村の歴史には火薬の技術は存在していなかったと言われる。初代はなかなかの才覚者で、途中、堺さらに岡崎に寄り、火薬の知識を得て、江戸に入ったと思われる。江戸には鍵屋以前に花火師がいたわけである。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

煙火に用いた硫黄 煙火に用いた硫黄 花火師としては鍵屋弥兵衛が最も古く、横山町に店を構え打ち上げ花火のほか目新しいネズミ花火などカラクリ物も手掛けて、市井の人たちの評判をよんでいた。江戸名物両国大川の川開きの花火には、鍵屋と分家の玉屋が趣向をこらして技を競い合ったことは有名である。これにならい、地方各地でも花火は諸行事に欠かせないものとして流行をみるようになった。このことは硫黄の需要をさらに高めたであろう。花火における火薬類の調合は、その家代々の直伝でありすべて口伝となっていたようであるが、鍵屋の秘伝書として今日公開されているものとして「大柳-硫黄15、硝石7、樟脳5」「赤い烟-硫黄20、硝石20,ケイカン50」などと示されたものがあって、やはり硫黄は花火火薬の主なるものであったと言える。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

鍵屋弥兵衛、日本橋横山町で花火を製造。隅田川(大川)に両国橋が架かる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1659年  万治2年  両国橋完成

両国橋完成 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1659年  万治2年  豊橋吉田天王祭

この頃、豊橋吉田天王祭花火定着 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1659年  万治2年  綱火始まる

豊川市進雄神社の綱火始まる。綱を張り流星(ロケット)を吊って走らせる仕掛。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1660年頃  万治3年頃  火薬の製法

岐阜県恵那市 その昔、村の者が種子島へ火薬の製法を学びに行った事に始まり、1660年頃より爪切地蔵尊への奉納とお盆の送り火を意味する煙火が行われていたと口伝されています。奉納花火ゆえにただ点火するのではなく、爪切地蔵尊さまにお供えされている灯明を送り届けるという意味があり、この綱ロケットを使ってそれぞれの仕掛け花火に点火をされます。 「参考資料 : 岐阜県恵那市山岡町 林昌寺」

1663年  寛文3年  製造禁止

江戸市中において、花火の製造禁止。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1665年  寛文5年  禁止令

江戸市中花火遊び禁止令 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1669年 寛文9年 将軍家綱

7月20日および8月20日の2回にわたり、四代将軍家綱は江戸城二の丸で煙火を鑑賞し亥の刻(午後10時)に帰った。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,59項」

1669年  寛文9年  花火上覧

徳川家綱 二の丸で花火上覧(流星・からくり) 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1670年  寛文10年  禁止令

幕府 火災を恐れ、流星やねずみ花火などを町内で揚げる事に禁止令を発する 2回目 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

江戸市中花火遊び禁止令 この頃、京都鴨川の花火始まる 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

町中における花火禁止。但し水辺は認められた。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1670年  寛文10年7月  禁止令

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 人家付近にて花火を出すを禁ず、の記載あり。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1672年  寛文12年  花火研究所

イギリス テームズ川南岸のウリッジ兵器廟に花火研究所が設立され、さらに11年後には花火に関する手引書も刊行されるなど、その後のイギリス花火の隆盛の基礎が確立されたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1680年  延宝8年  禁止令

幕府 火災を恐れ、流星やねずみ花火などを町内で揚げる事に禁止令を発する 3回目 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

徳川綱吉 江戸市中花火遊び禁止令 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1681年  延宝9年8月  仙台藩主

仙台藩主 広瀬川にて花火見物。20代藩主伊達肯山公(綱村)が医師高屋喜安(宗甫)宅におもむき、広瀬川の河原で花火見物。医師が自ら?花火を作ったか。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1681年  天和元年  煙火製法書

佐久市瀬戸の小須田家伝来の「煙火製法書」 長野県史・近代史料編・第二巻(二)のP769に記載あり。記載されている種類は「~松明」となっているので、おそらくは道中照明用と思われる。打ち上げた形跡はない。その点、まことに珍しいもので、他に例を見ない。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1688年~1704年  元禄年間  江戸鍵屋

江戸鍵屋 深山に狼の糞を取りに行き、やがて流星・星下り・虎の尾などの花火が考案され、これらを観賞に供するものとなった。「のろし」は「狼煙」とも書かれ、狼の糞には燐分が多い為燃えやすく、煙がたくさん出たといわれている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1690年  元禄3年 文化史の中の硫黄

文化史の中の硫黄 付け木に使う木片の消費量が多いのでこれを麻幹で代用せよとの厳しいお触れが出るほどで、その原料である硫黄の取扱量も察しが付くところである。北信地方では付け木のことを「ツケンパ」と呼ぶところがあり、今も記憶にある人が少なくない。付け木は農家の農閑期の仕事として近隣では中野の深沢、山ノ内町宇木、牟礼村平出などで作られていたが、そこに付ける硫黄は主に須坂米子の硫黄鉱山や、昭和に入っては群馬県嬬恋村の小串鉱山などで採れたものである。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1691年  元禄4年  愛知県小坂井町兔足神社

愛知県小坂井町兔足神社花火定着 昼花火・建物仕掛・手筒 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1704年  元禄末期  江戸鍵屋

江戸鍵屋 徳川幕府の煙火御用達商を命ぜられ、初めて民間の煙火製造業者として公認されている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1711年 正徳元年 吉田祇園祭

手筒も大改良が加えられ、これまでの手筒を遥かに超越した大筒が出現して、吉田祇園祭の全盛時代が訪れたのである。この頃になると建物は十数間の長柱に幅三間の機翼をつけ、それに種々の煙火が仕掛けられ、また一本の綱に多くの煙火を取り付けた綱火等が観衆の目を楽しませ“大なし”と云われたものではすでに大衆を喜ばせる事は出来なくなっていたのである。その後、ついに角材で組んだ台上に縛り付けた大筒の乱揚に依って、いやがうえにも大衆の歓声を得なければならないまでに発展していったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,71項」

1711年  正徳元年  甲州市市川大門神明の花火

甲州市市川大門神明の花火の記録あり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1712年  正徳2年  静岡草薙の龍勢

静岡草薙の龍勢の行事始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1712年  正徳2年8月10日  郊戸神社祭礼

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 郊戸神社祭礼にて初めて花火を揚げる。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

飯田の今宮郊戸神社の奉納煙火始まる。この頃から県内の神社の祭事に合わせて奉納煙火始まる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

長野県における煙火の歴史は飯田市を中心とする南信地方より始まる。飯田の花火のうち最も古いものは、1712年に始まった飯田今宮郊戸神社の奉納煙火と言われている。そのルーツは、当時煙火の先進地であった三河と伝えられており、天竜川沿いに煙火文化が伝播したものと考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1716年~1736年  享保年間  武家花火と町人花火

享保年間も末になると、町人の経済力が大きく発展し、武家の文化に対して町人文化が絢爛と花を開くのだが、その頃から大商人が大川端の料亭を利用することが多くなった。納涼期間には涼み船で大川に繰り出すが、その周りには花火を売る花火船が集まった。江戸大店の旦那衆の豪遊ぶりは当時の文芸作品や芝居にも数多く残されているが、その中でも自前の花火を一瞬の座興のために打ち上げさせるのは大変な豪遊だった。このように、両国橋を中心とした大川で花火を打ち上げたのは、何も川開きの当日に限ったわけではなく、納涼期間中なら雨さえ降らない限りは、大商人の誰かの船から花火が打ち上げられていたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

武家の花火 町人が花火を打ち上げているのだから、大川沿いに下屋敷を持つ諸大名も競って花火を打ち上げるようになった。大名花火はお抱えの火術・砲術家が担当したり、町人花火師を呼んで打ち上げさせたりした。特に尾張、紀州、水戸の徳川御三家の大川沿いの下屋敷から打ち上げる御三家花火が江戸の庶民にもすこぶる人気があって、夕涼みをしながら花火見物をするのが習わしになっていた。また仙台伊達家の花火は、伊達政宗以来代々伝えられた豪放な家風を表していて、江戸庶民の間では大好評で、見物客が大勢押し掛けたために、仙台藩邸近くの万年橋の欄干が折れるという事故までおこすほどだった。こうした武家の花火は、通信用に使っていた烽火にいろいろ細工をして観賞用としたもので、「狼烟(のろし)花火」と呼ばれるものである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

大名花火ともいられた武家花火は、火術用の木砲を使って高く打ち上げられた縦の花火が主体だった。一方、鍵屋などが主流となった町人花火は、仕掛け花火などの横に広がりの有る物が中心で、完全に観賞用として開発されていた。武家花火と町人花火は、出発の時点から使用目的も思考方法も違っていたのだが、この両者の傾向の違いが、現代の日本の花火に大きくプラスしている事は明らかである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1716年~1736年  享保年間  清内路村

清内路村の手作り花火 享保年間以来の伝統をもち、その種類は仕掛け花火に属し、花傘・巴車・棚火・綱火・手筒・焼字・神前・大三国の他、それぞれ工夫を凝らした勇壮豪華な仕掛け花火が、秋季祭典に奉納される。

1717年  享保2年  鍵屋弥兵衛

鍵屋弥兵衛 初代の弥兵衛は研究熱心だったとみえて、その後も大型花火の実験を重ね、とうとう享保2年には水神祭りの夜に献上花火を打ち上げてみせて、後々の川開きの花火の先鞭をつけた。弥兵衛が江戸に出て玩具煙火を手掛けて以来、人に見せるに足りる大型の花火を打ち上げるまでには58年の歳月を要したことになるわけだから、花火1発の打上がいかに難しかったかがわかる。 弥兵衛の花火が開発されても、どこでも勝手に打ち上げられたわけではない。江戸で大きな川があって、見物人も集まれるところという条件を満たしたのが、両国橋を中心とする大川端だった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1717年  享保2年  大阪水神祭

大阪水神祭に夜の花火献上。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1720年 享保年間 豊橋 吉田宿

松井嘉久が著した「東海道千里の友」の吉田宿のくだりに―六月十五日大花火あり―とも記述されており、当時の豊橋の煙火が国中に広まっており相当大規模の花火が催されていたことがうかがい知られるのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,71項」

1725年  享保10年  秩父吉田の龍勢

秩父吉田の龍勢始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1727年 享保12年 両国川

万治年間からは、江戸両国川では川開きが行われ、毎年夕涼みの初日すなわち5月28日(現在の7月下旬)には煙火が打揚げられ、1727年(享保12年)からは流星の打揚のみにとどまらず、仕掛け煙火もはじまり大混雑をきわめたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火1727年 享保12年史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,59項」

1729年  享保14年  硝石

江戸の火薬硝石問屋組合25人、大伝馬町薬商19人 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

幕府、薬の専売制を敷く。硝石卸売り指定。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1730年頃  江戸時代中頃  打ち上げ花火

剣術、槍術などから一段低いものとして見られがちだった火術・砲術家は、自分たちの技術を権威づける為に、ささいなことでも秘密めかし、一種の閉鎖社会を作り上げてしまった。当然のことだが、武術としての火術家は、花火などには絶対に手を出すことはしなかった。同じ火薬の専門家である花火師が、花火の研究に精を出していた時期に、火術・砲術家は単に権威という殻に閉じこもっていたずらに時を過ごしてしまっていた。すでに述べたように、花火師は火薬が潤沢ではなかったというだけではなく、技術的にも大型の花火は打ち上げる事が出来なかった。後に花火師が大型の花火を打ち上げられるようになったのは、火術・砲術家が打上げていた「のろし」にヒントを得るところが大きかった。その意味では、大型の打ち上げ花火は町人の花火師と武家の火術・砲術家の技術協力の結果と言ってもいいのかもしれない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1731年  享保16年  下伊那の清内路

県の無形民俗文化財に指定されている下伊那の清内路の煙火は三河より伝来したもので、享保16年以来のものと言われている。清内路煙火は6派がある。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1731年  享保16年  水神祭

全国的凶作と江戸の疫病流行の翌年に、幕府は悪霊退散のため両国橋付近で水神祭を催したが、その時、両岸の水茶屋が余興に献上花火を打ち上げた。これが両国の川開きの始まりとされている。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1731年  享保16年  信州下伊那清内路

信州下伊那清内路の両諏訪神社奉納花火始まる。天竜川を下って三河に煙草を運び、花火の技術を教わってきて始めた行事といわれている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

信州下伊那清内路 上清内路と下清内路の両諏訪神社社堂の再建に煙火を3日間奉納

1732年 享保17年 八代将軍吉宗

全国的な凶作にみまわれて数万人の餓死者がで、江戸においても疫病が流行し多数の死者続出し、そのため八代将軍吉宗は両国川に水神祭をもよおして、悪疫退散を祈願した。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,59項」

1732年  享保17年  水神祭  川施餓鬼

大飢饉と疫病の流行 幕府が隅田川において水神祭りを挙行し、五穀豊穣と悪病退散の祈願として花火を打ち上げた 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

大川で川施餓鬼(川開きの初め)を行う。鍵屋6代目の時。両岸の料亭が出費して花火を見せたのが川開きの初め。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1733年  享保18年5月28日  両国大川の川開き

前年にならって、同じく5月28日に煙火を揚げ、以来年中行事となり両国の川開きとなっていったのである。このときの煙火師は鍵屋六代目篠原弥兵衛で打揚げた煙火は20発内外であったと言うことである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,59項」

両国大川の川開きで花火が打ち上げられるようになったのは、享保18年5月28日からだという。前年の享保17年には関西を中心とした全国的な大飢饉に襲われ、加えて江戸では伝染病のコロリ(コレラ)が大流行して多くの死者を出した。8代将軍徳川吉宗が死者の霊を慰め悪疫退散を祈って、両国大川の水神祭りを催した。これに大川沿いに店を張る水茶屋、料亭が協力して川施餓鬼を行ったが、この日に大花火を打ち上げたことから、川開きに花火を打ち上げる習慣が生まれたといわれている。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

両国の川開きに花火が行われるようになった 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

両国川開き毎年実施する。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

前年コレラ大流行。川施餓鬼を行い、ここに「両国川開き(花火)」始まる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1736年  元文元年  文化史の中の硫黄

文化史の中の硫黄 古い大阪市史によると元文元年(1736)、出羽の国から大阪に搬入された硫黄は28000斤とあって、その相当数が付け木用として使われたという。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1741年  寛保元年 尼崎藩

尼崎藩 花火打上。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1741年  寛保元年  西欧の花火

イタリア(ローマ)から開発された西欧の花火は王侯貴族に愛された。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1751年  宝暦元年  打上花火

現在のように筒から花火を打ち揚げる事が始まる。それまでは噴出花火が主流であり、次いで噴出しを竹に付けた流星(ロケット)が揚げられた。炎色も暗い物だった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

現在のように筒から打ち上げる形式が始まる。

1754年  宝暦4年  清州天王祭

尾張清州天王祭花火が定着。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1756年  宝暦6年  長野市古牧

長野市古牧の平林地区に遺された「平林若者連永代記録」が書き綴られはじめる。花火に関する記載あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1758年  宝暦8年4月24日~27日  松本城

松本城 城主戸田光徳が弓と鉄砲を御覧。当日へ向けての訓練用の火薬や玉の代金が松本藩から支払われた。弓組と鉄砲組の命中率を比較すると、弓組の方が命中率が良かったという結果になりました。 「参考資料 : 松本城管理事務所 多湖家所蔵文書」

1758年  宝暦8年  米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 宝暦年間に江戸の人、永峰藤吉が請負人となった。宝暦8年の入札で藤吉の納めた運上金の額は一年間で78両という高値であったことや、宝暦4年と刻印のある97段の石段を滝山不動尊奥の院に寄進していることから推し量って、この頃江戸表では硫黄の需要が高まりその値段も上昇していたのであろうと考えられる。この頃は露出した自然硫黄を「鷹の目」「鵜の目」と称して採るだけであったが、19世紀半ば文化年間に米子の人、竹前源九郎が焼取のよる精錬を行った。これが現鉱山の初めであるという。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1764年  明和元年  遠州新居町諏訪神社

遠州新居町諏訪神社の手筒花火定着。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1774年  安永3年  近江八幡篠田神社

近江八幡篠田神社の花火始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

篠田花火 篠田花火、雨乞いの為上田神社に奉納され、現在に至る。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1777年  安永6年8月  長野市妻科神社

妻科神社 花火願書 大鈴木家文書に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1777年  安永6年 大阪の花火師

大阪の花火師10軒。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1780年  安永9年  北信

稲荷山 北信では稲荷山の煙火についての記録がある 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1782年  天明2年  安茂里

犀川神社 煙火の歴史と犀川神社の杜煙火 煙火の起源-狼煙 煙火の起源は、狼煙であるとの説があるが、安茂里の犀川神社に伝わる「杜煙火」も、その始まりは狼煙ではないかと考えられる。それは鎌倉時代にこの地に城を構えた窪寺氏の時代からとされている。当時、鎌倉幕府は火急の事態の発生に備え、全国各地に点在する御家人を鎌倉に召集する「いざ鎌倉へ」のための非常招集の合図の手段として、狼煙が用いられた。天明2年(1782)の開墾にかかわる記録の中に「観音堂上煙平」という地名があり(「久保寺今昔」に詳しく書かれている)、現在の正覚院の円通殿の上部である。煙平は戦乱の折に急を告げる狼煙が上げられていた、いわゆる狼煙台として使われていた場所ではないだろうか。狼煙が煙火の起源とされている。しかし安茂里の煙火と、「観音堂上煙平」にかかわる狼煙が直接的に関係あるとは考えられないが、かつてこの地に狼煙を扱う技術を持った集団がいたとしたら、何か因縁を感じさせるものである。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

安茂里 大門地区「煙平」の由来は、中世の頃狼煙を上げた所、との記載あり。 「参考文献 : 安茂里史 長野県長野市,安茂里史編纂委員会編,安茂里史刊行会,1995年」

1782年/1833年  天明2年/天保4年  清内路

清内路では、天明・天保の大飢饉でも休まなかったと伝えられ、戦中・戦後も筒役(神前・三国)を奉納し続けている。 「参考文献 : 南信州の煙火 火の芸術に魅せられた男たち(「綿五」原家コレクションを中心として),飯田市美術博物館 編,飯田市美術博物館出版,2014年7月」

1783年  天明3年  花火の書

大阪の本屋の丹波屋半兵衛が花火の書の出版を願い出たが、差し止められ出版できず。出版年は不明だが、文字の形や挿絵が1700年前後の版本の特徴が見られる花火の書は現存。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

1786年  天明6年  線香花火

線香花火 天明6年刊の越後国の花火秘法書に、筆花火(線香花火)の図あり。筆者不明。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1786年  天明6年  塩素酸加里を発見

フランスのベルトン 塩素酸加里を発見。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1788年  天明8年  尼崎藩/仙台藩

尼崎藩、花火番組あり。仙台藩主、広瀬川で花火見物。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1789年  寛政元年  砲術番付

尼崎で行われた砲術番付は、当時、あくまでノロシであるにも関わらず、現在の煙火番付と殆ど類似し、特に夜の部の番付と言われたものの中には、後世の夜煙火と同じ名前が付けられているなど、現在の打上煙火の起源が明らかにノロシであることを物語っているのである。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

1789年 寛政元年 甲子夜話

江戸煙火の発展はますますめざましく、甲子夜話によれば、5寸、7寸、1尺の煙火が打揚げられた。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,62項」

1789年以降 寛政元年以降 打揚煙火

ところで打揚煙火は相当昔より揚げられ、その初期は菊、糸菊、錆菊、真砂菊、銀波菊、漣菊などとされている。古来より煙火の玉にはいろいろなものがあるが、その代表的な形は球形であることにはほぼ間違いない。この球の形は普通和紙、新聞紙などでつくり現在ではボール紙などを圧縮して半円形に作られており、この中に星と云われる火薬の小玉を並べ入れ、中央に割り薬とよばれる火薬をつめて、二つのこの半円形の火薬充填物をはり合わせ、導火をつけたものである。星はその中心に核と云ってキビ・アワなどに糊をつけ、それを彩光火薬の中に入れて回転させ次第に大きくしたもので、後にはこの彩光剤が2種類、3種類となって色の変化が表現されるようになっていったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,114項」

ところでこの玉ガワを丈夫にするためには幾枚もの紙がはられ、これを寸6、寸8などと呼んだのである。すなわち寸6とは、玉の直径1寸につき6枚の紙を外から補強したもので寸6の5寸玉の場合には、5寸✕6枚=30枚、もの紙を貼り重ねたのである。この玉が打ち揚げられたとき発射薬により点火した導火は、この玉が丁度その上昇極点に達したとき、玉の割り薬に火を入れるように適当な長さに調節されているのである。このように、割れた玉からは表面に火を受けて燃えながら星が四散し、発火薬の光跡が輝きながら引火して、燃え尽きるものを菊と云うのである。更に星に彩光薬の層がある場合は第1の位置より少し進んで変色をあらわすものでありこれが“菊の変化”と云われるもので、これは後世発達したものである。たとえば、一度彩光しその後再び彩光する場合を“菊の二化”或いは“菊先の変化”と名付けられるのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,114〜115項」

1800年頃 寛政12年頃 住僧仰空信道沙門

稲留流の煙火は非常な勢いで西三河一帯に広まり、中でも1800年頃の幸田町大字須美の如意寺の住僧仰空信道沙門は特に有名である。信道はもと碧海郡小川村(現在の安城市桜井町)の住人で家業を怠り、その身を煙火の打揚げに投じ、ついに身代をなくし、その結果僧侶となったものの矢張り煙火の魅力から抜けきることが出来ず如意寺はさびれる一方であった。信道は従来の稲留流打揚煙火に彼独特の創意を凝らして一派をあみだし、当地の古老達の伝承によれば江戸両国の川開きに煙火を江戸に送って三河煙火の名声をはくしたと言い伝えられている。豊坂村誌によれば、信道は先祖伝来の家がいよいよ人手に渡るとき「これが見納めなればこの屋の座敷にて別れの煙火をあげたいが…」と申し入れ「若しそのため火災にあう事があれば人手に渡りたるものを何とするぞ」と言う人々に「その時は二倍の値をもって補わん」と言い、居並ぶ人々の面前で、煙火の筒に火を投じた。煙火は天井下僅か一寸のところにて、ものの見事に開花した。この時の筒は径一寸、丈は五、六寸であったと述べられ、さらにこの筒は明治初年までは如意寺に保存されていた旨が記録されており、いかに信道の煙火上手であったかがうかがい知られるのである。また流星に特技を持ち、流星の先端に50本の傘をつけて打揚げたとも云われている。空中高く50個の傘が風に吹かれ、あるいは風に流されて乱舞するさまはまさしく壮観そのものの光景であったことであろう。さらに信道は打揚げに一派をあみだしたのみでなく従来の“梵天”にも一大改良を加え仕掛煙火の良光流をも編み出したのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,75〜76項」

1800年代  寛政12年以降  北信地方における煙火

北信地方における煙火の製造は、1800年代から始まった記録が残っている。当時は、秋祭りでの奉納を目的とした煙火が中心であり、住民らの手によって製造されていた。明治に入り、法律の規制により煙火製造が専業化していくが、奉納物としての役割は残る事となった。現在も集落の祭りでは、煙火を打ち上げる習慣が残っている。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1801年  享和元年  寺島の花火

寺島の花火に700の見物船(摂陽奇観)。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1802年 享和2年 吉田天王祭

1802年(享和2年)に出版された「奇旅漫録」(上)吉田天王祭で曲亭馬琴は当時の様子をこう語っている。
「三州吉田の天王祭は六月十五日、今日の花火天下第一と称す。大筒と称するもの(立物という)二本の周囲数十尺、高く櫓を組み立てこれを据える。其の外種々の花火あり。(大筒の資材は城主よりこれを出さる。)各々桟敷をかまえて之を見る。又近国よりも見物に来るものあり。鍛冶町の裏通りは杉の木を植え囃子神楽あり。花火を市中にてあげるなり。この夜屋上或いは簀子の下に火ぼこりかかりたりとも、火難のうれいなし。是氏神の加護によるといいつたえあり。」「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,72項」

1804年 文化元年 甲子夜話

浅草三股で一橋亜相卿が“煙火戯”を楽しんだことが記録されており、この時はじめて従来の花火が“煙火”と書かれるようになったのである。打出しと言うのは立火のことであり、打揚と言うのは現在の玉型式の所謂打揚煙火で、打揚煙火が登場した記録の最古である。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,62項」

1804年  享和4年  一橋亜相卿

一橋亜相卿の鑑賞した三股の花火番付に「打揚」の記載あり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1806年 文化3年 八瀬可満登

越後片貝の庄屋大刀川文哲の著した”八瀬可満登”には花火について記されており、これが現在の片貝の大煙火三尺玉のはじめであるといわれている。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,63項」

1806年  文化3年  片貝の花火

この頃、新潟・片貝の花火始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1808年  文化5年  江戸玉屋

江戸玉屋 鍵屋のれん分けして分家玉屋を両国吉川町に作る。鍵屋の守護神であるお稲荷さんの狐は、一方が鍵を持ち、一方が擬宝珠を持っていたが、鍵屋八代目は独立に当たってこの玉を与え、玉屋の屋号を許したという。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1809年  文化6年  犀川神社

久保寺煙火 犀川神社 久保寺煙火 「花火の法」と書かれた秘伝書がある。大門区所有。 文化6年(火薬調合法86種記載)、文化11年、文政12年、弘化3年(火薬調合法180種記載)、明治11年の5冊がある。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1809年  文化6年  岡崎大矢河畔

岡崎大矢河畔(菅生川)で花火。三河煙火史。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1810年 文化7年  玉屋

鍵屋が6代目になった文化7年に、鍵屋の手代だった清吉が別家して両国吉川町に「玉屋」の看板を上げた。江戸商人は丁稚、手代、番頭といった身分階級が厳しかったが、番頭にならなければ分家、別家など「のれん分け」はしてもらえなかった。こういう習慣を破って手代で主人の6代目鍵屋弥兵衛に信用され、店を持たせてもらえたのだから、清吉の才能は尋常ではなかったと考えられる。火を扱う商店として、鍵屋は特に鍵屋稲荷を守護神にしていた。その祠の前の狐の一方が鍵を、一方が擬宝珠(ぎぼし)の玉を持っていた。鍵屋は清吉を別家させるときにこの玉を与えた。以来、清吉は市兵衛と改名の上、玉屋として独立したのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

このころ玉屋が鍵屋から分家する。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

この頃、玉屋が鍵屋から分家、独立。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1813年  文化10年  長野市小牧

長野市小牧の平林地区に遺された「永代記録」に煙硝代と硫黄代の記述あり 。煙硝はお宮の縁の下ですって調合したという古老の話と記録が残っている。「永代記録」は宝暦6(1756)年より村の若衆組によって書き綴られていた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1814年  文化11年8月14日  今宮花火祭礼

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 今宮花火祭礼の夜、傷を受け五人を相手取り訴え後、扱金廿両に依り示談となる。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1816年  文化13年  江戸佃島の花火

江戸佃島の花火 「花火番組74種119番」との記載あり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1816年  文化13年  小林一茶

小林一茶 「大それた花火の音も祭りかな」 かつて地域の青年たちが安茂里村(現長野市)の花火師から製法を教わり、手作り花火を打上げた。歴史は古く、一茶の1816年(文化13年)の日記に、門人宅で見たとの記述もある。落合神社の秋祭りに奉納しており、同社は伝統を途切れさせず、地域の活気を守ろうと考えた。 「参考資料 : 落合誌 落合花火を打上げる会(信濃町落合地区)」

1817年  文化14年  硝石製法備要集

斉藤甚太夫の書「硝石製法備要集」に硝石産地として、加州、米沢、飛騨、甲州、信州、日光、相馬、蝦夷、を挙ぐ。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1818年  文政元年  須坂城主楽焼窯開き

須坂の城主が窯開きに花火を上げる。北信で最初の打ち上げ花火という説あり。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

北信地方での最初の煙火打ち上げは須坂市の須坂城主楽焼窯開きでの煙火という説があるが、正確な記録は残っていない。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1820年 文政年間 熊野流 鶴田民蔵 加藤龍蔵

甲子夜話などを総合すれば、奥殿、細川、大平などを中心とした地方には古くから立物が発達し1789年〜1800年の寛政年間にかけては、相当に大きな立物が催され、衆目を集めたことが僅かに記述されているがその他の文献は皆無に等しく知る事が出来なかった。我々は新たに奥殿熊野神社でその発祥を詳かにすることが出来た。それに依れば、岡崎市奥殿の熊野神社の祭礼には打揚煙火と庭煙火すなわち、仕掛煙火の2種類が古来より催されていたが、当時、共にいまだ規模も小さく、技術も幼稚であった1820年文政年間住人に鶴田民蔵というものがいた。彼は下山村の大幡某に稲留流の伝授を受け、その大儀をきわめたのである。其の後ますます研究を重ねついに他に比類のない色彩と奇術をもって高く評価されるまでになっていった。特に仕掛には卓越した技術をあらわし全国の有名な塔やお堂さらに城門を型どったおおがかりなものを仕組み、年毎に変化発展し、世間にその名を誇っていったのである。その後、この技術は同郷の加藤龍蔵に伝承され、ますます、研究のすえ龍蔵はさらに稲留流庭煙火に西洋式煙火を取り入れ一派を編み出したのである。これが世に言う奥殿の仕掛の元祖である。一名「熊野流」であった。熊野流の名は日毎に高まり単に庭煙火としてのみでなく、打揚煙火としてもますます発達しついにその弟子も300人を越える程であり、三河五十余ケ村または遠く静岡県にまで拡がり、その高名を自他共に認めざるを得ないまでになっていったのである。
また、この奥殿に稲留流の中根泰三という者がいた。彼は、尾州刈谷藩で代々栄えていた萩野流の相伝を受け、明治初年稲留流を改良して「一光神法」またの名を、「一光流」と呼ばれる一派を編み出しその名は三河のみにとどまらず、遠く信越までも伝わり、はるばる彼の土地より弟子入りを願う程であった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,84〜87項」

1821年  文政4年  佃島

長崎から代官、作右衛門の次男、高木進之助および、御鉄砲方高木内蔵が江戸に来て佃島海上で合図のノロシをあげたことが、「視聴草」に記されている。この時の昼の番付の合図の部にある袋物の名称に、象・唐舶・鶴・および亀などがあり、この時代になると、大体、現在の煙火の源になった物が出揃っていたようである。また、これらの製造法については、「安盛流 相図流星の巻」「小華小録流 星極砲伝書」「萩野流 花火術」などに詳述されるところとなり、これを見てもノロシが打上煙火の源であることが知られる。と同時に、応仁の昔より三河武士によって駆使されたノロシは、鉄砲伝来により改良され、徳川家康の蔵するところとして研究された。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

中国式火術 唐の制度をまねて作られた烽燧(ほうすい)は、更に中国文明の伝来により信号用としては狼烟(ろうえん)を誕生させ、一方、攻撃用としては火槍・鉄炮の火術を伝えたのである。この中国式鉄砲を鉄炮(てっぽう)と言い、西洋式の鉄砲がいわゆる現代の鉄砲である。この中国式火術については、先ず大陸との関係から知らなくてはならない。 「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

長崎代官(高木氏)江戸佃島で花火披露。オランダ伝来の花火技術を供覧したか。新しい原材料を長崎では入手できたか。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1822年  文政5年  祭礼花火の流行

祭礼に花火を打上げる事も流行し、各地の村々でおこなわれた。文政5年(1822)岩村田町の花火に殿様(内藤正縄)御成りがあった。竜雲寺林東方に殿様の御小屋を建て、紫の幕を張り屏風をめぐらした。重臣の小屋も建ち並んだ。八つ時(午後二時)に花火が始まり、夜五つ時(八時)過ぎにめでたく終わった。昼の花火は、一番赤雲から十二番の赤雲白竜二段まで、夜の部は、一番連星から火柳・飛蜂星・星下り・往来の火・独曜星・布引(ぬのびき)・柳火集星二段発・日月(じつげつ)・往来火・玉簾(たますだれ)・集星、十三番の火竜星までであった。翌年4月にも殿様御成りの花火があって、昼30本、夜22本が打ち上げられた。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第六巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1822年  文政5年  金魚花火

岡崎天王祭で「金魚花火」出現。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1823年  文政6年  信州新町越道飯縄山

信州新町越道飯縄山の花火 大日方司殿御免鉄砲所持者4名が花火師として担当。配合帳「花火合」が現存。花火の製造は蔵の二階で花火師達が当たった。平成8年まで継いていた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1823年  文政6年  長野市平林

長野市平林の宝樹院住職の葬式に、棺に「地雷仕掛」をした。十返舎一九の火葬の時も、棺に花火を仕掛けてあったというから、当時の流行だったのだろう。「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1824年 文政7年  久保寺煙火

久保寺煙火(犀川神社)の起源 久保寺氏の氏神と言われている日吉(ひえ)山王社名が、氏子一同の願い出により、神祇官の京都吉田家より「犀川神社」と改名が許可されたのを祝って、社号披露に奉納煙火が揚げられたのが、久保寺煙火の文献上での最初である。長野市では最古。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

犀川神社の花火方三派 狼煙で日中に煙を扱うのは小西の小路と西河原地区であって煙を霞にたとえた霞真(かしん)流という。大門が夜に火を扱うので大火流という。差出地区が声やドラ・太鼓・鐘などの音を扱うので、昇声流という。この三派による共演は、花火のたどった狼煙時代から現在に至る道を思わせるのであった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

長野市で最初の打上は、1824年に行われた長野市安茂里に位置する犀川神社の杜花火である。久保寺の氏神が、社号の変更を許可されたのを祝賀する花火だったというが、秘伝書の「花火の法」という記録は1809年にすでにあったというため、それ以前から煙火は存在したと思われる。この久保寺の煙火に集まる同好者から煙火研究に熱が入り、煙火専業に従事する者が輩出した。この犀川神社の杜花火の開始以降、様々な神社で煙火の打上が行われるようになった。長野県で煙火産業の盛んな南信地方、北信地方はともに神社で行われる奉納煙火を起源としており、長野県の煙火の歴史において奉納煙火が重要な役割を果たしている事が読み取れる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

長野市では、神社へ奉納煙火としての杜花火が神社周辺の住民たちによって盛んに行われるようになった。これは主に集落単位での秋祭りの際に行われることが多く、米や芋を奉納するのと同様、五穀豊穣などを願って奉納していたとされる。煙火を神社の奉納する文化の存在が、北信地方における煙火産業の興隆に繋がっていると考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

北信地方における煙火の打上は19世紀初頭からであるが、当初は秋祭りや地域の恵比寿講などで比較的小規模に行われていたものが多く、金銭のやり取りも少なくボランティアのような形であった。このような形態の中では、住民が誰でも煙火を製造し、奉納することが可能であった。煙火普及の過程ではアマチュア同好者によって煙火製造が行われ、農業や自営業などとの兼業体制であったと言える。しかし、1910年に鉄砲火薬類取締法が改正され、製造には作業設備の保有や警察の許可が必要となったことから、煙火の製造は専業化されていった。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年

1826年  文政9年頃  流星花火

須坂の豪農田中一族が流星花火を打つ。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1826年  文政9年  医薬に用いた硫黄

医薬に用いた硫黄 「硫黄の用をもっとも広し、薬に用いるは古きを貴ぶ、信州の鵜の目、鷹の目の類皆絶なり」と漢方薬の処方として書かれたもの(文政9年の序あり)からも硫黄服用の効果を想像できる。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1827年  文政10年8月  長野市古牧

長野市古牧の平林地区に遺された「平林若者連永代記録」に花火代、硫黄代、樟脳代の記載あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1827年  文政10年  岐阜垂井大石

岐阜垂井大石で花火小屋作る。天保年間に入って秋葉神社の祭典として盛んに奉納花火(車火・万燈など)を行う。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1830年  天保年間  松代藩山内沓野

松代藩山内沓野で硝石製造開始。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1833年  天保4年  高野一道

高野一道 生まれる。埴科縣神社の参道の横に銅像と花火打ち上げ用の筒がある。明治時代の蘭法医で順庵と号した。天保4年(1833年)更級郡境新田村(信田村)丸山段蔵の三男に産まれ、生萱村の高野正庵の後を継いだ。高野氏は代々医師を生業にして松代藩に仕えた。一道も医者となり戊辰の役には松代藩の軍医として従軍し功績があった。生来無欲で医療はまったく仁術で薬礼を請求した事が無く、埴科・更級郡で、その恩恵を受けた者は数えきれないほどだった。煙火にも興味を持ち、日本で一番早く二尺玉花火の打ち上げに成功した人と言われている。岡崎(愛知県岡崎市)の花火師から製法を伝授されてから、4年後の秋祭りに二尺玉の打上を決めて準備をした。祭りの日の打上場所は、西湯沢の田園で埴科大宮神社から導火線に点火、途中で火が消えてしまい2~3度やり直したが大筒まで届かず、一道が自身で大筒に火を投げ入れたが大筒が大破して破片が飛び散り稲穂も打ち落され大失敗に終わった。その時の費用は甚大で当時500円(籾150俵相当)の大金を要したと言われている。 「参考文献 : いきがやぶらり歴史さんぽ,生萱を知る会」

1833年 天保4年 徳島相生町

徳島相生町吹き筒花火定着。同種のもの小松島立江に在る。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1835年 天保6年 安房平久利

安房平久利の花火定着。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1836年 天保7年 水内郡平林村

水内郡平林村 村の遊び日は、村の労働の休みの日であるとともに、村人の娯楽の日であり、村人がともに文化的なものを享受する日でもあった。それは個人的な文化の享受や若者仲間だけの文化の享受とは違って、村落共同体によるものであった。よそから招いた催し物の場合もあったが、村の若者たちの手で催されることが多かった。若者たちは、その日の為に歌舞伎・浄瑠璃・踊りなどを習い、相撲を稽古し、花火の技術を学んだのである。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第六巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1836年 天保7年 瓜割煙火

瓜割煙火 「疫れい、即ち赤腹と称する病流行の際、村内重立の者において協議の上、硫黄又は硝石の香りは疫れいに効能あるものとし、盛んに森煙火の奉納したる効能にや、翌年以来大流行病絶滅したるにより、一は深慮に叶へたるものとし、即ち森煙火は村内平和と離るべかざるものにして年々奉納挙行したり」 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

瓜割煙火の起源 疫病流行に効能があるとし、春祭りに杜煙火の奉納。後に瓜割煙火は西沢煙火店、花屋鈴木煙火店、藤原煙火店、紅屋青木煙火店の指導を受ける。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1836年 天保7年 長野市古牧

長野市古牧の平林地区に遺された「平林若者連永代記録」 花火を奉納する場合は役員にお伺いを立てる事。他所に花火を奉納する場合も役員にお伺いを立てる事。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1837年 天保8年 島津藩

浦賀で砲撃された英国モリソン号は薩摩の山川港に回航してきた。島津藩では直ちに萩野流砲術師範鳥居平八、平七に命じてモリソン号を砲撃させたのである。処が山の上の砲台から眼下に停泊中のモリソン号な百数十発をはなって、わづかに一発しか命中せず、その翌日ゆうゆうと港をたっていったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,63項」

1840年 天保11年 高嶋秋帆

高嶋秋帆というのは長崎の鉄砲方をしており当時長崎に来ていた、オランダ、キャピタンのデビレニューに4年の間、砲術・軍略・戦術をならい“砲術真伝書”をあらわし、1840年(天保11年)には西欧砲火採用の意見書を幕府に上申し、その弟子には有名な江川太郎左衛門がいた。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,63項」

1840年 天保11年 長野市平林

長野市平林の2つの筒で30発余打上。筒の長さは、大:1丈(約3m)、小:7~8尺(約2.1m~約2.4m) 「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1841年 天保12年7月 飯田藩

飯田藩は幕府の天保改革令を受けて、飯田町大宮・今宮祭礼の町方奉納花火が、近ごろ品柄(しながら)・員数とも増すいっぽうで経費が増大していると咎め、緊縮を求めている。しかし、両宮の花火は盛大で、ケガ人が良く出たほどであった。ほかに下伊那をざっと見た範囲でも、化政期以降、飯田領の毛賀・駄科(だしな)・名子熊(なごくま)・山・島田(飯田市)、座光寺知行所の山吹(高森町)、白河領の吉田(同)、知久知行所の河野(豊丘村)、高須領の伴野(同)、幕府領の林(同)、千村預り所の清内路村、等々の花火が、かわるがわる催され、所領をこえて遠近の見物でにぎわった。大宮・今宮などは専門の花火師によったらしいが、村々の場合、若者仲間の手製花火が主であった。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第六巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1841年 天保12年 小川村高府武部八幡宮

小川村高府武部八幡宮 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1841年 天保12年 長野市平林西後町

長野市平林西後町の小妻屋から硝石が奉納され、音羽滝を消費。「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1842年 天保13年 長崎

長崎でも盆に墓所で煙火を焼く風俗があり、1842年(天保13年)以後再三にわたり長崎奉行より盆中に墓所で煙火を焼くことを禁止するふれを出しているほどであった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,63項」

1842年 天保13年 長野市押鐘万刀美神社

長野市押鐘万刀美神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1842年 天保13年 硝石製薬販売法規

銀30匁以上の花火、竹花火禁止。幕府 硝石製薬販売法規を定める。天保の改革で花火やその原料の規制を行った。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1842年 天保13年 玉屋と鍵屋

幕府が、玉屋と鍵屋を呼び出し、大川筋の花火に代銀3匁以上の費用をかける事と、花火からくり(仕掛花火)、筒物を禁止する。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1843年 天保14年5月17日 玉屋の興亡

玉屋の興亡 玉屋市兵衛方から出火。玉屋は全焼したばかりか街並みを半町ほども類焼させてしまった。たまたま出火の日が将軍家慶の日光東照宮へ参拝に出立する前日であったことから、玉屋は闕所(けっしょ、財産没収)、江戸お構い(追放)になってしまった。後に玉屋は営業を再開したが、昔日の隆盛を取り戻すことは出来なかった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

光芒の時代 木炭の燃える炎の濃淡を自由自在に使いこなして、精巧な花火を造ってきた江戸時代の花火師の技術は、世界でも例がないものだった。この花火文化史上、「和火の時代」として位置付けられている時代は「光芒の時代」と呼ばれることもある。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1843年 天保14年 豊野町石鷲寺諏訪社

豊野町石鷲寺諏訪社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1843年 天保14年 長野市若槻蚊里田八幡宮

長野市若槻蚊里田八幡宮 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1843年 天保14年4月17日 江戸玉屋

江戸玉屋 出火。街を半町ほど類焼させてしまった。その翌日たまたま将軍家慶が日光東照宮に参拝することになっていたため、市内を騒がせた不届至極ということで、所払いで追放となり、玉屋は断絶してしまった。一代30年しか存在せず、川開きで技を競った期間は20年あまり。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1843年 天保14年 玉屋失火

玉屋失火。所払いとなる。”所払い”という罰は最も軽く、”江戸払い”と異なり居住地区を離れる事で、一説には浅草東本願寺脇の「誓願寺前」または「深川海辺大工町」へ移ったと言われている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1843年 天保14年8月22日 飯田藩

飯田藩の古文書(近世郷土年表に所収) 村々鎮守祭礼に付き無届にて花火打ち上げの向きありしも以来は必ず其品数届出づ可く触、但、打上狼煙、大流星は前通り停止。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1843年 天保14年 玉屋失火

将軍日光社参の前夜、玉屋失火。所払いとなる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1846年 弘化3年7月24日 問御所村栽松院境内天神

問御所村栽松院境内天神の祭りに奉納された妻科村新田組の龍勢花火が石堂組忠七の屋根に落ちる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1846年 弘化3年 長野市北尾張部神社

長野市北尾張部神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1847年 弘化4年 瓜割煙火

瓜割煙火 善光寺地震で関係書類は焼失する。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1847年 弘化4年3月24日 善光寺地震

善光寺地震 死者8000人以上。

1847年 弘化4年3月24日 武井神社

奉納煙火について 武井神社の記録は善光寺地震で焼失しているため分からない。神事には灯明としての神聖な火をロウソクに灯して使用するが、煙火は使用しない。人々にとって「価値の有る物」をお供え物として神に捧げる行為が奉納なので、煙火が奉納されたのではないか。美しいから奉納の対象物となったのではないか。 「参考資料 : 武井神社」

1847年 弘化4年4月13日 善光寺地震

善光寺地震 犀川の堰き止め湖が決壊。決壊に対する警戒態勢は2ヶ所の監視小屋で行われ、監視役から狼煙により決壊の報が本陣に伝えられた。

1848年~ 嘉永年間~幕末 川開き花火

川開き花火 嘉永年間から幕末にかけて、内外の情勢が切迫し、川開き花火は中止になってしまった。さすがに楽天的だった江戸っ子も花火を見て楽しむ余裕を失っていたのかもしれない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1848年~1850年 嘉永1年~嘉永3年 この間、両国の花火はほとんど行われず。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1850年 嘉永3年 妻科神社

妻科神社 嘉永3年の「神傳花火法帳」残存。他に「花火法記」「花火法」「花火元集帳」「妻立花火法」が現存するが年号記載なし。年号の記載はないが、配合薬品の違いから明治12年以前の和火時代、明治12年以降の洋火時代と分ける事が出来る。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1851年 嘉永4年3月 佐久間象山

佐久間象山 松代藩士で幕末期の兵学者、思想家の佐久間象山は、かねてから海外の兵器の研究をし、本格的な西洋式大砲の鋳造に成功しました。松代藩領であった生萱村(現在の千曲市生萱)で、嘉永4年3月にその鋳造した大砲の試射を行う事となりました。 生萱 埴科縣神社 佐久間象山が我が国で初めて大砲を実射した地で、その砲弾が神社に奉納されている。砲弾重量は約3kg。 「参考資料 : 千曲市生萱 埴科縣神社」

1852年 嘉永5年 群馬県藤岡市

群馬県藤岡市十二天社建立。

1853年 嘉永6年6月 ペリー来航

ペリー来航で硝石の価格1両8貫匁が500匁に。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

黒船来航 黒船来航にともない、幕府が硝石製造を推奨。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

ノロシについて 狼煙、狼火、の狼という字がなぜ使われるか。オオカミの毛糞には花火の発火剤に用いられている硝石に似た成分が多く含まれているらしい。ペリー来航時、緊急通報用の狼煙の為に、紀州藩では狼の糞を必死で集めたと文書に残っている。 「参考文献 : 情報と通信の文化史,星名定雄,法政大学出版局,2006年10月」

1854年 安政元年 爆発事故多発

火薬製造中の水車小屋爆発事故多発。幕府、火薬取扱いについて命令を出す。外国船来航に備え、幕府は要塞(お台場)造営と同時に火薬製造を奨励したため、各地で硝石作りに水車を回し、不慣れの為各地で爆発事故が発生した。その対応策に追われる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1854年~ 安政年間 静岡県 草薙神社

静岡県 草薙神社 戦国時代の天文12年(1543)初めて火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。「昼ののろし」(龍勢)は、煙や布きれ又は旗などを漂わせ、「夜ののろし」(流星)は光で合図したものであった。この技法が当地に口秘伝のまま受け継がれて、更に工夫改良され、安政年間からは日本武尊を祭神とする草薙神社の秋季例大祭日に打上げが行われてきました。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1854年~ 安政年間 米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 安政年間に書かれた中居屋十兵衛の砲薬新書に「鵜の目硫黄は信州米子山より出るを上品とす」と記されている通り、米子では良質の鷹の目、鵜の目の量が圧倒的に多かったのである。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1858年 安政5年 コレラ

コレラ病不発前 硫黄七匁、硝石三匁 粉末にして火にくべ嗅ぐべし 丹波島駅史に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

コロリが大流行する。安政コレラは長崎港に中国経由で入港した米軍艦ミシシッピー号によりもたらされた。松本地方の流行は9月中旬ころからで、百瀬陣屋の「御用日記」には松本の岡宮神社、筑摩神社、穂高神社でも祈祷が行われている。9月16日には江戸屋敷から幕府の暴しゃ病(ぼうしゃびょう)の治療法が届けられた。 「参考資料 : 安政5年御用日記 近藤家文書 松本城管理事務所蔵」

1863年 文久3年 両国の川開き

幕末の動乱期 花火どころではなく両国の川開きの花火中断 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1863年 文久3年 瓜割煙火

瓜割煙火 煙火法帳が現存。文久3年、明治12年、大正5年、昭和25年の4冊が現存。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1863年 文久3年 豊野町川谷長清寺

豊野町川谷長清寺 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1864年 元治元年7月19日 仙賀佐十

京都では長州軍二千と幕府軍七萬とが、蛤御門、堺町門付近で戦った禁門の変がおきた。日頃の思いを果たすのはこの時と、彼は一路京都を目指して西上したのである。ところが、事変は以外に早く終わりをとげ、彼が京都についたときには、すでに、長州勢が崩れ去ったあとであった。佐十は焦燥の身を、そのまま、九州長崎へと足を進め、そこで、一心不乱に煙火の研究をし、やがて、故郷豊橋へ帰ってきたのである。その後は、ますます煙火の研究に没頭し、遂に“煙火の神様”と言われるまでになったのてある。佐十は当時、誰も使用したことのない塩素酸カリをも用い、紅、緑などの鮮光美しい色もの煙火をつくり、その元祖と言われている。また、一番困難とされていた紫煙と黒煙を天中高く描きだしたのである。これが世に言う仙賀流である。仙賀流はしだいに世間の名声をはくし、特に次に述べる事件を境として、全国的にもその名を知られるに至ったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,81項」

1866年 慶応2年 三水村苔翁寺金毘羅堂

三水村苔翁寺金毘羅堂 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1867年 慶応3年8月15日 パリ万国博

徳川昭武一行がフランスで驚嘆した最たるものは、1867年8月15日にフランス皇帝の誕生を祝って凱旋門で繰り広げられた花火であった。杉浦愛蔵ほ「帰朝雑誌」の中でこう書いている。「花火の巧ミなる御国(日本の意)風とハ違い、四方より四五本つつ一時に打揚げ、赤、白、碧、紫、薄緑、浅黄其他の発色して彩光を為し…」「参考文献 : 清水卯三郎 1867年パリ万国博をめぐって,千葉敬愛経済大学研究論集第19号,澤護,1981年,505項」

1867年 慶応3年 火薬製造所

幕府、滝野川に火薬製造所を設立。ベルギーから機械輸入。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1868年以前 明治以前 雷

音物と云われる雷も古く明治以前より揚げられよく使用された。“五段雷”は、親玉の中に5つの雷粒を仕込んだもので、空中で5回雷音を発し、雷薬は強音を出させるために紙巻きし、更にノリづけされた麻糸でしっかりと巻き、その上にもう一度紙貼りしたものであり、このようにして作られた雷粒には一つ一つ導火がつけられ、その長さの加減によって段雷を発するようにされたのである。また、雷粒が菊などと組み合わされ菊の星の芯に入れられ、菊が開いたとき、その花弁の先がバリバリと音をたて、これがいわゆる“先割れ”“先の群声”“先の雁声”などと呼ばれたものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,119項」

1868年以前 明治以前 スガラミ

また、紙筒の中央に打出し火薬を入れ、その両側に発煙星を詰めたものをポカ玉で打ち出すと、星が前後左右上下に乱れ飛び、パラパラとかシューシューとか音をたててこれが“スガラミ”と云われるものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,119項」

1868年以前 明治以前 龍 蜂 群蜂

火箭のように小さい筒(径9ミリ、長さ90ミリ位)の噴火口を閉じ、その中に火薬を詰め導火を付けたものを玉の中に詰め込んで打ち揚げると、この筒は火をふきながら飛び交いこれを“龍”と云ったが、この龍より更に小さなものを作ってこれに彩光薬をぬり、玉に詰めて打ち揚げると、はじめは星が燃えると同時に美しい色を示し、その後導火に点火して、ここから火をふき空中を落下しながら回転し、一種のうなりを生じる。これが“蜂”または“群蜂”と云われたものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,119〜120項」

1868年 明治元年 煙火打揚の禁止令

斯様に幕末から明治にかけての黄金時代を迎えるに当たり、その余りにも急激な進歩発展のためにむた多くの事故と犠牲者を出し、1868年(明治元年)から1884年(明治17年)までの間に二、三回煙火打揚の禁止令が出され、その注意がうながされたにも関わらず一向に煙火熱は冷めるどころか逆に煽る結果にもなっていった様である。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,92項」

1868年 明治元年 清水卯三郎

パリ万国博から帰国の途中、サン・フランシスコで米大統領の改選の際に目撃した花火は、彼の脳裏から離れることがなく、後日、卯三郎は西洋花火について次のように記述している。「西洋烟火の、奇火異光を呈するに至りてハ、又、本邦の人の知らざる處なり、余曽て佛國に在り、烟火を観ること数回なり、驚歎の餘り、其葯品数十種を購求めて帰る。」「参考文献 : 清水卯三郎 1867年パリ万国博をめぐって,千葉敬愛経済大学研究論集第19号,澤護,1981年,505項」

1868年 明治元年 両国の川開き

幕末の動乱により平和の煙火は一時下火となり、例えば両国の川開きも中断されたが、1868年(明治元年)になり久しぶりに復活され大盛況をはくした。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,64項」

1868年頃 江戸時代末期

鍵屋 鍵屋は江戸時代末期に武士の屋敷に頼み込んで教えてもらったと、子孫が昭和になってから明らかにしている。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

砲術方 煙火は狼煙に携わる武士が開発したものと思われる。砲術方は基本的に、鉄砲、大筒、狼煙の3つを同時に担当したため、それぞれの技術を結び付ければ容易に打上煙火を製造できるはずだ。始めは狼煙の一種だったが、将軍や藩主が鑑賞したり賓客をもてなすために手を加えて花火になり、技術移転されたと考えられる。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

砲術家 花火の秘伝書は、各地の図書館に他の古文書と共に集められ保管されています。秘伝書は、大部分が武士で砲術家が大型砲の試射や自派の宣伝として、砲弾の代用に煙火を打ち上げています。一部の砲術家は、手遊びとして庭花火も行っています。 「参考文献 : 煙火,竹内武雄編,竹内武雄,1989年」

篠原煙火店 煙火技術は群馬県から菅平を越えて初代社長に伝わったとされている。江戸時代は煙火師が煙火を揚げるのではなく、地域の豪商や名士が筒を持っており、煙火師が作った玉を揚げる事が多かった。須坂市は長野市よりも早くから恵比寿講の煙火が始まり、煙火業者が専業化する基盤が古くから備わっていた。そのため本家から煙火作りが始まり、創業当時より煙火師として生計を立ててきた。煙火製造は爆発事故の危険性がある為、賠償金に充てる為の土地を所有していたが、煙火の製造に専念するために土地は農地として貸していた。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1868年頃 江戸末期 長野権堂村

長野権堂村遊女屋の客寄せに、秋葉神社祭礼の際花火打上げる。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1868年頃 徳川時代 徳川時代の花火

徳川時代の花火は、すべて虎の尾式が主でいわゆる「流星」「星下り」で真円く開くものはなかった。浮世絵に描かれているのはウソである。 「参考資料 : 両国川開大花火番組 昭和9年号」

1868年頃~ 江戸末期~明治初期 上水内郡豊野町石区

上水内郡豊野町石区 花火の調合法を記した「花王流花術秘伝実記」が現存。花王流という花火術が京都府山科の真言宗山階派大本山亀甲山勧修寺と縁の深いことが記載されている。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1868年頃~ 江戸後期~明治 奉納煙火

狼煙として入った物が改良され、古くから各地に残る神社での、その土地の独特な奉納煙火に発展 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1868年頃~ 明治初期 和火の時代

明治と年号が変わったからと言って東京(江戸)の花火の内容は江戸時代と何の変わりもなく、同じ材料を同じ技術で花火に仕上げていく生活を続けていた。明治時代になっても初めの頃は、花火師にはまだ和火の時代が続いていたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1868年頃~ 明治初期 塩素酸カリウム

塩素酸カリウムが輸入され「洋火」と言われた 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1868年頃~ 明治初期 秋祭りの花火

明治に入って、更埴、長野の村々では、秋祭りに花火が行われていた。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1868年 明治元年 両国の川開き

両国の川開きの花火復活  「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1868年 明治初年 信州の硫黄付け木

信州の硫黄付け木 明治時代の初年に編纂された「長野縣町村誌」によれば、科野村(現中野市深沢)、夜間瀬村(現山ノ内町宇木)、平出村(現牟礼村平出、昭和13年まで付け木作りをしていた)、傍陽村(現真田町傍陽)に、製造物として「ツケ木」「附木」「引火奴」の名を見ることが出来る。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1868年 明治元年 信濃煙火製作所

信濃煙火製作所 創業は明治元年であるが、その経緯は不明である。3代目社長までは世襲であった。集落に隣接した工場を持つことから、近隣住民と良好な関係を築く事が重要である。そのため集落の宴会の余興で煙火を披露したり、神社のお祭りで煙火を奉納するなど、住民と密接に関わりながら、煙火製造を維持している。昔は1集落に1軒くらい打上煙火業者があった。煙火屋という屋号もあった。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1868年〜1912年 明治〜大正 火槍 2号炬

その昔、元の大軍が博多に大挙して来襲したとき使用された火槍は筒に燃焼剤を充填して使用したものであるが、いつの頃よりか照明などの目的に使用され、明治から大正にかけて日本陸軍においては2号炬と云われ専ら使用された。内径13ミリ、長さ375ミリの紙の管に硝石・硫黄・炭の他、硫化アンチモン、マグネシウムなどが混ぜられるようになり、点火した場合80ミリ位の焰をだし約8分位は燃えてあたりを明るくした。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,113項」

1868年 明治元年 両国川開き

両国川開き挙行。大盛況を極める。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1868年頃 明治初期 菊

明治の初期には、すでに形物の菊の種類としては、輪中の菊、割込の菊、真菊、丁字菊、八重芯菊、覆輪菊、覆輪芯菊などが打ち揚げられており、二重の菊を表すものとか菊の芯が二重になるもの、菊と色星の組合されたものなど星の製造に手の込んだものが、打ち揚げられていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,115〜116項」

1868年頃 明治初期 ポカもの 藤 連星

菊は勢いよく星が飛ばされ、したがって星は平面的にまたは一方向に放射されるものであるが、これを弱くだした場合には、玉の音は弱くポカッと云うだけであり、こう云ったものをポカものと云い、これは玉の中に紙製の袋細工を充填し、この細工ものを空中に浮かばせるために工夫されこれを一般に袋ものと云い、またパラシュートなどで星を吊ってゆっくり落とすものを吊りものと云い、明治初期には菊に対しこの吊りものも現れ、吊袋に2個以上の吊り火を持った“藤”“連星”なども打ち揚げられていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,116項」

1868年頃 明治初期 横連星 滝 田毎の月 松島

連星を前後に二つの吊り袋でつって横にねかした場合には“横連星”と云われ、これにアルミニウムが使用されて白色光を流すと、“滝”が出来るのである。また空中に10個位の星を吊るして点在させたものを“田毎の月”と云いその後色火を使って緑の彩光をえがき出したものを“松島”と云ったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,116項」

1868年頃 明治初期 花傘 提灯

その他“花傘”と云って吊袋のまわりに色星をつけ、その下柄をつけたもの、また“提灯”と名付けられた紙袋の中に色火を入れたものなども打ち揚げられはじめたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,116項」

1868年頃 明治初期 煙菊 色火

昼煙火では煙を利用し黄菊、白菊、黒菊、なども打ち揚げられていたのである。その後明治の初期から中期にかけては西洋から色火が輸入され、バリウムによる緑、ストロンチウムによる紅、ナトリウムによる黄色、銅と水銀の配合による青色が応用され一層とその美しさを増していったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,116項」

1869年 明治2年 清水卯三郎

パリ万国博から持ち帰った花火を早速にでも打ち上げてみたいと思いながらも、戌辰の役でそれがかなわず、翌明治2年に日本橋本町3丁目20番地に移転したあと、自宅「瑞穂屋」の前で「蠟燭の如く作」って実験した。…この花火は打ち上げ式のものではなく、薬品に火を付けるだけのものであったが、西洋花火を知らない人たちは、「眞紅の光満街を照した」のを見て火事かと騒ぎ、近くの湯屋に入っていた人々が丸裸で外に飛び出し、一騒動が持ち上がった。「参考文献 : 清水卯三郎 1867年パリ万国博をめぐって,千葉敬愛経済大学研究論集第19号,澤護,1981年,505項」

1869年 明治2年 善光寺地震死亡者供養大煙

善光寺地震死亡者供養大煙火 旧長野刑務所跡にて 製作者は妻科の石黒利兵衛、徳武喜三郎、市内の大日方要助、橋本忠右衛門、三戸部喜右衛門。昼はふくらみもの、夜は御殿桜(火柳みたいなもの)。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1869年 明治2年 権堂

権堂 秋葉神社祭典の大煙火。世話人 山口伊吉、藤田屋治兵衛。 麻績村から尺玉の筒を牛に引かせて運んできた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1869年 明治2年 西洋花火公開

瑞穂屋清水卯三郎 仏国博覧会から帰国。西洋花火公開。パリで開催された万国博に、日本から物産を出品展示するために渡仏。花火に接し、イギリスより玩具花火を輸入。東京日本橋他で公開して市民を驚かす。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1869年 明治2年 兵部省

兵部省を置く。幕府の火薬製造所を接収。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1870年 明治3年 長野市平林

長野市平林の若者連で花火筒を製作 「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1871年 明治4年1月3日 天長節の大煙火

天長節の大煙火 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1871年 明治4年 菅生祭 錦魚煙火

通称「研せん」と呼ばれた者が祐金町に流れ住んでいた。彼は江戸で研刀を修行した。所謂、刀の研ぎ師であったが、煙火に精通しこの菅生祭の金魚煙火に改良をくわだて、独特の水中煙火をつくりだし、これを祐金町に伝授したのである。これが「錦魚煙火」である。以来、祐金の錦魚と呼ばれ水中煙火中、随一のものとして高く評価され、自他共にその技の妙を誇っていたのである。その後、1875年(明治八年)頃にはすでに研せんの行方はようとして解らず、妻は尼となって諸国を編歴し大和の国の或る庵主となり、主人を忍んで岡崎善立寺にその碑を建立した。この研せんのことに就いては、いまだ錦魚煙火以外のことは皆目解らず、彼こそ将しく“幻の煙火師”であった。この錦魚煙火は当時、祐金町の岡本清八(桶屋職人)、鈴木善吉(石屋職人)、岡本音三郎の3人が受継ぎ、町内の若衆に伝承していったのである。
当時、錦魚煙火の秘密は非常に厳しく、煙火を打込んだのち即座に町内の若衆が水中に飛び込んでそのガワを集め、一つのガワでさえ他の町内の者には拾わせなかったのである。またガワを拾わない若衆には、それが例え誰であろうとも煙火の製造を授けなかった程であった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,89〜90項」

1871年 明治4年 火薬運送規則

火薬運送規則を定める。鉄砲取扱法などに先んじて、運搬規則が制定されたのは興味深い。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1872年 明治5年 煙火に関する告示

煙火を揚げるため一般人におよぼした迷惑も相当あったようで、1872年(明治5年)には次の様な告示がなされていたことからもうかがい知られる。
第三号
揚火並興行物等村々ニ於テ相催候節村内不同意ノ者有之候得ハ元若者ト相唱候者共威逼シテ賞金ヲ出サシメ或ハ不法儀オ相働候儀間々有之由相聞以ノ外ノ事ニ候自今以後右辺不都合ノ儀於有之ハ吃度処申付候条区内未々迄不漏口可相奉モノ也
五申 八月 額田県
即ち、煙火を揚げるために金品を強請したりそのための迷惑をかけたりもした様である。がまた、1879年(明治12年)頃には塩素酸カリが輸入され、人と物とが調和した時期だけにその進歩発展もすさまじく、新流派の続出となり、明治新政府の制度の改革に伴い、新たな規制とその改良による規制などにより、次第に一般化が要求される現状となり、やがて三河煙火の近代化へとその一歩を踏みはじめるのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,92〜93項」

1872年 明治5年 鉄砲取締規則公布

鉄砲取締規則公布。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1872年 明治5年 開署大煙火

長野県監獄第一署・第二署 開署大煙火 更級郡栄村から尺二寸玉を持って来て揚げる 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1872年 明治5年 秋葉神社

権藤村の秋葉神社 江戸末期、長野で一番の繁華街だった権藤村では、水茶屋の客寄せに、秋葉神社のお祭りに花火を打ち上げ、賑わっていた。しかし、1872年(明治5年)、人身売買停止令で水茶屋が閉業、秋葉神社の花火は停止となった。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

1872年 明治5年 花火打ち上げ中止

人身売買停止令で長野権堂村遊女屋閉業。長野花火打ち上げ中止となる。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1873年 明治6年 両国川開き

両国川開き当夜、前年に鉄道が開通した新橋・横浜間で臨時列車を走らせ、運転予告広告を在留外国人向け外字新聞に出す。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1874年 明治7年 煙火製造許可

ところで、三河で最も有名な煙火家は東に仙賀、西に島清と言われ、武田流としてその名をなしていた碧海郡矢作町島(岡崎市矢作町)に稲垣請兵衛なるものがいた。祖は上官司の執事で苗字帯刀を許された家柄であった。神職の関係もありいつの頃よりか煙火と深いつながりを持っていた。清兵衛は金融業または質屋を本業としていたが、趣味として研究していた煙火がついには本業となり、2代目力之助は長崎で火術の研究修行をし、故郷矢作に帰って古来からの武田流に西洋煙火を加えて大改良を行い、一躍武田流の有名をはせたのである。弟子は三河地方をはじめ各地五十余ヶ村に広まり、明治初年には矢作町で径2尺の大筒を揚げた程であった。彼はまた自ら煙火の発展を志し、弟子には原料を無料で分け与えるなど、また京都東本願寺が大阪へ御遷座の時に三河煙火玉五十個を献上し、遠く関西にまでその名をはせたのである。また、1874年(明治7年)全国一様の初の規制を受ける様になり、多くの煙火家に先立って許可を受けるなど大いに三河煙火のきをはいたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,92項」

愛知県の稲垣氏および奈良県の小山氏の両家が全国の煙火師にさきがけて煙火製造の許可をうけたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,64項」

稲垣(愛知)小山(奈良)両家花火製造許可。稲垣家は「三河煙火史」に記載されている。小山家には関係文書なし。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1874年 明治7年 花火が真ん丸く開く

10代目鍵屋弥兵衛の苦心の結果、この頃より花火が真ん丸く開くようになる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

丸く開く花火 花火の本家の烽火方(のろしかた)というものが、当時はなかなかすごい勢力で、町人の我々がいかに逆立ちしてお願いしても、なかなか製造法を譲ってはくれませんでした。そこで鍵屋十代目彌兵衛は、どうにかして真ん丸い形に花火を開かせたいと考え、伝手を求めて見習いの掃除夫のような者になって烽火方の家にやっと入り込みました。季節は冬でしたが、寒さもいとわず懸命に働き、ようやく信用を得て一つ二つの花火の製造法を会得することができました。病気になり家に帰りましたが、それが動機となって今日のような真ん丸く開く花火を完成しましたが、それが明治7・8年の事であります。 「参考資料 : 両国川開大花火番組 昭和9年号」

1875年 明治8年 ダイナマイト発明

ノーベル 膠質ダイナマイト発明。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1875年 明治8年 横浜に黄燐マッチ工場

横浜に黄燐マッチ工場がフランスからの知識で設立。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1875年 明治8年 洋火時代に入る

この頃より塩素酸加里を使用。洋火時代に入る。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1875年 明治8年 豊野町石粟野神社

豊野町石粟野神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1876年 明治9年 錦絵に打ち上げ花火

松本市 松本中学校の開校時の錦絵に打ち上げ花火の絵が描かれている。

1877年 明治10年 平山甚大

仙賀佐十と深い繋がりを持った人に、旧吉田藩士の平山甚大があった。甚大は中村道太郎の弟で、横浜で貿易事業を行い、豊橋、豊川方面の煙火をアメリカへ輸出し、三河煙火輸出の先駆者として有名である。当時、煙火の製造は全く家内的であり、且つ、季節的でもあったので、思う様に註文に応じきれず、そのため甚大は自分で煙火を製造することを思い立ち、研究のすえ、ついに一派を編み出したのである。これが平山流であり、またの名を、“光芒流”とも言われた。この光芒流は立火の類で、即ち、西洋式煙火で名前ほどには見事なものではなかったと言うことであるが、仙賀流がはじめて東京に紹介されるより2年前、1877年(明治10年)はじめて、これが横浜の空に打揚げられた時には、東京人および当地にいた外人達より、かなりの拍手を受け、たちまちのうちに、その名をあげ、このために平山甚大が、三河打揚煙火製造の元祖だとも言われるのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,82項」

1877年 明治10年11月3日 横浜で西洋花火打ち揚げ

横浜で西洋花火打ち揚げ(平山甚太)。三河出身平山氏。明治7~8年頃横浜大田町に煙火工場を作る。西南戦争祝勝を兼ねた天長節奉祝花火に、彩色花火を打ち揚げる。平山花火は後に米国へ花火を輸出する。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1878年 明治11年9月5日 西沢長蔵

西沢長蔵氏生まれる 翁は当時大字西長野の新諏訪町に住む西沢善吉氏の長男として生まれ、農業を嫌い、30歳頃より打ち上げ花火の魅力に取りつかれ、家の畠の片隅に花火小屋を作り、そこで連日尺玉・2尺玉などを作り続け、当時の恵比寿講を賑わしたものだ。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

西沢長蔵氏生まれる 新諏訪町の生まれで子供の頃から花火好きで有名であり、明治末に製造許可を取り西長野町に住み、工場は新諏訪町に設け藤原善九郎に教えを受け二尺玉・三尺玉の元祖として大玉を手掛けた。打ち上げ時には瓜割煙火会員が手伝いをし、息子博氏は親父を助けたが戦後は廃業し現在は地蔵平に住まわれている。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

西沢長蔵氏 西沢さんは子供のころ、学校へ持って行く銭で硝石を買ってしまった。この辺(新諏訪・西長野)はそういうところがある。近くの古老は「子供のころ、硝石を買ってきて、炭と硫黄を配合して、竹に詰めて、花火を作っていた」というのです。大人が奉納煙火を作っているのを見て、真似した。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

西沢長蔵氏生まれる 新諏訪町 家の畑に花火小屋を作り連日大玉の研究と打ち上げに没頭し、大正時代に西長野へ居を移し三尺玉に情熱を燃やした。昭和5年1月、長野の高土堤で日本最初の三尺玉打ち上げに成功した。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1878年 明治11年9月8日 長野県煙火の図

明治天皇が長野に行幸の際、城山から御覧になった昼花火は注目された。煙火は9ヶ所から打ち上げられた。この昼花火を描いた「長野県煙火の図」(五姓田義松・画、写真)が宮内庁に所蔵されている。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

正確な記録は残っていないが、長野市で打上煙火が盛んになったのは明治時代に入ってからとみられており、1878年の明治天皇北陸巡幸の際に長野市で煙火を打ち上げて天覧に供したことから、この時にはしっかりとした技術があったと思われる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

明治天皇長野へ御行巡され、その折に近在の花火愛好家労作の花火を長野市城山にて打ち上げる。尺玉40本、八寸玉40本、飯田からも参加している。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

御巡幸の花火 下伊那の飯田からも来ました。尺玉40本、8寸玉も40本あったという程の大煙火でした。若槻村 三戸部織之助氏 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

明治天皇巡幸の際に煙火事故の記述あり。長野にて昼花火の時に左の頭に怪我をしたる者ありしかば金を賜はり足る由。花火は善光寺より、飯田から出したると安茂里村より出したるが最もよろしかりしよし。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

天皇巡行花火 信濃毎日新聞に安茂里の窪寺の花火と飯田の菊畑の記事が載った。

長野で明治天皇が飯田の”菊畑”を観る。200玉の花火と筒を飯田から長野に馬の背に付けて運び、市内城山で打ち揚げる。連発の初め。天皇はアンコールを求められたが、不可能と辞退する。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1878年 明治11年 太田続吉

明治11年、武田流火術師、太田松右衛門を父として誕生した太田続吉は、父の技を受継ぎ、更に、本宗にも師事して、技術はますます円熟よ境地に達していった。続吉はこれだけではなお飽きたらず、遠く台湾にまで歩をのばし、中国火術を研究して帰ってきたのである。また当時、本宗に火術の技を受けた人の中に、安城市の成瀬晋吉・知立町の中野重太郎の2人がいた。太田続吉は成瀬晋吉らと共に、三河煙火の全国的な発展と宣伝につとめたのである。今日の納涼煙火を全国的に繁栄させたのは成瀬晋吉であり、三河がん具煙火を今日あらしめたのは太田続吉であると、近隣にその名をたたえられるに至った。この彼等の「大正時代の三河煙火発展史」上に残した功績は、実に大いなるものがあったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,98項」

1878年 明治11年 豊野町伊豆毛神社

豊野町伊豆毛神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1878年 明治11年 長野市南屋島皇大神宮

長野市南屋島皇大神宮 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1879年 明治12年 仙賀流煙火 仙賀佐十

豊橋の出身、故中村道太郎(東京丸善本社副社長)の斡旋で靖国神社大祭において、仙賀流煙火を東京の老舗鍵屋と玉屋にはさまれて打ち揚げることとなった。これを知らされた鍵屋と玉屋は-たかが田舎者の煙火師が-と、幾分かの嘲笑と、揶揄の瞳で彼を迎えた。さて当日、仙賀流の煙火が空高く打ち揚げられたのを見て、両家はその素晴らしさに感歎するばかりであった。鍵屋や早速、佐十に東京に残る様に説得したが、「俺は東京へ自分の煙火を打ち揚げに来たのであって、研究する為にわざわざ出かけてきたのではない…」と、さっさと豊橋へ帰って来てしまったと言うことである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,81〜82項」

1879年 明治12年 塩素酸カリウム

この頃になると、すでに塩素酸カリが煙火に使用されはじめており、いいかえれば1879年(明治12年)頃より色煙火が発展し、煙火の製造にも以前よりひときわ危険性が高まっていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,65項」

1879年 明治12年 花火の世界の文明開化

文明開化の時代 現在の東京銀行の前身である横浜正金銀行が外国為替専門銀行として設立されるなど、外国貿易が一段と活発化した。こうした文明開化の時代を背景として、花火師の世界も大きく揺り動かされた。それまで黒色火薬だけを材料として、手細工で花火芸術を支えてきた日本花火の世界にとって革命的ともいえる最新式の酸化剤として、塩素酸カリウムが明治12年頃輸入された。さらに硝酸ストロンチウムや硝酸バリウムなどの炎色材が続々と輸入されてきた。まさに、花火の世界の文明開化はこの時を機に始まったと言っていい。日本い花火が登場してから二百数十年、最も急速に進歩した時期であり、各種花火製造に関する研究と実験が行われた時期でもあった。日本の花火が現代のように世界一の豪華で華麗な完成された芸術として発展してくるまでには、明治時代の化学薬品輸入当初に、多くの先輩花火師の命がけの研究が土台となっている事を忘れることは出来ない。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1879年 明治12年 朝比奈龍勢復活

静岡県志太郡岡部町に朝比奈龍勢復活。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1879年 明治12年 塩素酸カリウムが導入

このころマッチと共に塩素酸カリウムが導入され、花火の色が原色ではっきり出せるようになった。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1879年 明治12年 上水内郡腰村

上水内郡腰村となる。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1879年頃 明治12年頃 ネズミ煙火

1879年(明治12年)頃から1885年(明治18年)頃に塩素酸カリが輸入され、がん具煙火のネズミ煙火に利用され従来はシュシュと火を噴いたのみであったが、これに音が入り、筆ネズミに利用されたものが俗に、シュシュパキン、と云われたもので、舞ネズミに音の入ったものが、イタチと呼ばれた煙火である。また変わったものとしては、大ネズミがあった。これは3寸4方の和紙の4隅を赤青黄緑の色で染め、その紙で火薬を包んで売ったもので、この火薬にて、ネズミ煙火等を随意に造って楽しんだのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,105項」

1879年頃まで 明治12年頃まで 引火

さて、打ち揚げの初期にはこの変化ものは勿論見られず、糸菊は引火が細く光芒の小さいもので、錆菊は光芒が暗くまたの名を黒引と云われたものである。真砂菊は引火の光の上部が変化して、銀波菊は青白い色の光が波状に現れるもので、漣菊はその光が揺れてみえると云ったように、その殆どが引火の変化と云った程度で、単色星であった。また禿菊と云って引火が下へさがるものなどであったようである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,115項」

1880年 明治13年9月 長野市平林

長野市平林の若者連の花火の最盛期 流星数百本、立花火数十本、大滝、清滝、不動滝、権現滝、松竹梅、獅子に手牡丹 「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1880年 明治13年10月1日 文明開化諸政策

文明開化諸政策すすめる政府や地方官は、民衆芸能・民間信仰や年中行事などの伝統的習俗を、猥雑(わいざつ)で怠惰(たいだ)な浪費とみなし、無用なものとして抑え込もうとした。民衆の学事への関心が一時的にせよ衰えた明治10年代においても、学校がどこまでも文明開化のシンボルであり続ける限り、啓蒙とうらはらの抑圧という原理は変わらなかった。北佐久郡矢島村(浅科村)では学事が衰退し、村人は学校をきらい資金も滞っていた。ところが村祭りに花火をあげようとしたところ、たちまち100円余りも集まり、一夜のうちに「村内の膏血(こうけつ 財産 引用者)を烏有(うゆう)に」帰してしまったという。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第七巻 近代一,長野県 編,長野県史刊行会出版,1988年」

1880年 明治13年 長野市平林

長野市平林の若者連の花火 花火は安達神社境内と本城山でも揚げている。「森花火致し、此時揚げ物は、流星その数も幾百本、立花煙数十本、大滝・清滝・不動滝・権現滝・松竹梅・獅子に手牡丹、隣村遠近の老若男女、吾も吾もと集合し東西の地、立錐の間これなく、大花火というべき火術方は村内の若者」と記録が残る。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1880年 明治13年 豊野町蟻ヶ崎八幡宮

豊野町蟻ヶ崎八幡宮 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1881年 明治14年10月 清水卯三郎

明治14年にイギリス人・スポンの「オエクシオップ」を「西洋煙火之法」として訳述した。と同時に「煙火之葯品」をも瑞穂屋で販売した。「参考文献 : 清水卯三郎 1867年パリ万国博をめぐって,千葉敬愛経済大学研究論集第19号,澤護,1981年,506項」

清水卯三郎 「西洋烟火の法」出版。仏国万国博覧会土産に花火輸入した先覚者。英国で1879年刊行の「オエクシオップ」(原文のまま)を訳したものを出版。塩素酸加里(塩酸カリウム)の危険性を述べている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1881年 明治14年10月 裁判所新築落成式

裁判所新築落成式の大煙火 この時から西洋火の紅が初めて出てきて、尺玉で紅を百釣ったのが見事であった それまでは和火色のみ 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1881年 明治14年10月 三戸部織之助

裁判所新築落成式の大煙火 私も尺玉7本と8寸玉12本を揚げました。西洋火の紅の出たのはこの時からです。尺玉で紅を100釣ったのが見事に出て、その釣り火は丹波島まで行きました。また昼の大達磨は茂菅まで行って、風のあんばいで裁判所の上までもどってきて落ちました。若槻村 三戸部織之助氏

1881年 明治14年 西長野町

腰村を西長野町に改称する。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1881年 明治14年 豊野町大倉諏訪社

豊野町大倉諏訪社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1883年 明治16年 牟礼村高坂曹源院

牟礼村高坂曹源院 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1884年 明治17年12月 火薬取締規則

新たに火薬取締規則が発布された。すなわち、今までに許可を受けたものは明治18年2月28日まではそのままでよいが、以後はこの規則にしたがって免許を受けたものに限り製造が許可されることとなった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,65項」

火薬類取扱法 規則公布 火薬類取締規則布告 火薬類取締規則布告。人民の火薬製造を一切禁止するが、烟火、マッチは除外。導火線は烟火と同じ取扱いで製造が許されていた。烟火製造業者の貯蔵量は、火薬5貫目(約18kg)、劇発火薬(爆薬)500匁(1.8kg)まで。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1886年 明治19年 長坂専次郎

細川にはもう一人、近隣に名をとどろかせた者がいた。彼は長坂専次郎その人であった。この長坂専次郎のことについては、細川町の顕彰碑によく述べられている通りである。専次郎は幼少の頃から煙火を好み研究のすえ「専海流」をあみだし、更に、その後も研究をつづけ、同郷の稲垣清琢と共に東京にまでおもむくなど、その研究に没頭していたが、或る日火災をおこして没したのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,88〜89項」

1886年頃 明治19年頃 瓜割煙火

瓜割煙火 当時の若衆頭が先達となって花火を盛り上げた 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1886年頃 明治10年代 更埴市稲荷山治田神社

更埴市稲荷山治田神社 奉納空中炸裂玉、流星、庭花火等が記録に現れてくる 稲荷山町に煙火製造販売店が営業を始めたので、趣味で奉納花火を製造する若衆は花火を作るのに非常に便利になった 明治40年頃までは主に打上煙火のみであった 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1887年頃 明治20年頃 錦魚煙火 銀魚煙火

祐金町に鈴木徳兵衛という者がいた。彼は他人にさきがけこれまでの錦魚煙火に塩素酸カリを使用して、非常に光輝のあるものをつくりあげた。これが銀魚煙火である。岡崎の水中煙火はこれに依り錦魚、銀魚の煙火として、ますます、その名を高めていったのである。ところが丁度その頃、岡本音三郎が貧に落ち入り、遂に或る日、本町にやとわれて、金魚煙火を作ったことから、次第にその秘密性がやぶれ、祐金町の独占もむなしく、岡崎中の町内に広まり、岡崎天王祭の錦魚、銀魚として近隣の地方を圧していったのである。この様な大衆化のためか、この煙火に就いては特定の流儀としては後世にのこらず、各町内の創意に依り、例えば祐金町では一本の筒を使用し、本町では十字に筒を組むなどの程度の差はあっても、本質的には全く同様で、各町内総合の上で、換言すれば、「岡崎の錦魚煙火」として発展して来たことは前述の通りで、秘密性の厳しい煙火史上、研せんの生涯と一脈あい通じた変わった過程をたどったものと言うことができよう。研せんの改良は全く革新的なものがあり、百年経った現在においても、殆ど改革の余地がなく技術上殆どその儘(そのまま)のものが使用されているのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,90〜91項」

1887年 明治20年5月 城山館開館祝賀会大煙火

城山館開館祝賀会大煙火 速射は既にこの時に行っていた 三州出身の通称「鉄」が四寸玉百発揚げる 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1887年 明治20年5月 三戸部織之助

城山館の開きの時の大煙火 ただ今流行の速射はすでにこの時にやったものです。私の世話をした三州の足の不自由な鉄が4寸で100発やりました。若槻村 三戸部織之助氏

1887年 明治20年7月 清水卯三郎

フランス語から訳した「佛国新法煙火全書」第1編刊行「参考文献 : 清水卯三郎 1867年パリ万国博をめぐって,千葉敬愛経済大学研究論集第19号,澤護,1981年,506項」

清水卯三郎 「煙火全書」出版。1878年パリで出版された、フランス軍火術学校長A.Dベルグロット他の共著5篇からなる本の訳書。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1887年 明治20年 最明流 加藤小兵

稲留流伝承者の中で、特に有名であったのが、西尾市羽角の加藤小兵てあった。小兵は僧信道の得意とした矢の技に長じていたが、これだけでは飽き足らず、豊橋の仙賀流の名を聞くに及んで、わざわざ当地におもむき、仙賀佐十に師事して、これまでの稲留流に更に創意と工夫をこらし、ついに研究の結果一流を編み出し、羽角に代々続いた最明寺の名をかり受け「最明流」と名づけた。
加藤小兵は最明流独特の緑の鮮光と、菊に開いた外輪と内輪のあざやかな区別を有する打揚げで、大いにその名を高め66歳をもって、この世を去っていったのである。当時煙火と言う危険性最大のものを手掛けて、天寿をまっとうしていったことは、彼の技を誇るに充分なものがあろう。その後、現在までその後継者は生存しており、羽角の加藤煙火として今なお栄えているのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,83〜84項」

1887年 明治20年 11代目鍵屋弥兵衛

11代目鍵屋弥兵衛がマニラからスターマインを持ち帰り、両国川開きに初めて登場させる。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1887年頃 明治20年頃 更埴群

更埴群では明治20年頃、花火は秋祭りの呼び物であった。庭花火、仕掛け花火に工夫を凝らし、生萱村、その隣村の倉科村、森村等が技術を競っていた。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1887年頃 明治中頃 奉納煙火

青木多門氏談 明治中頃まではどこの神社でも氏子の若衆が、自分の神社の伝統ある煙火を作り奉納して、氏子の人々を始め大勢の人々を楽しませてきました。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1888年 明治21年11月 清水卯三郎

フランス語から訳した「佛国新法煙火全書」第2編刊行「参考文献 : 清水卯三郎 1867年パリ万国博をめぐって,千葉敬愛経済大学研究論集第19号,澤護,1981年,506項」

1888年 明治21年5月 鉄道開きの祝賀会

鉄道開きの祝賀会 煙火 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1889年 明治22年2月3日 加茂神社

城山に備え付けのドン(午砲)破裂。2月1日、陸軍省へ払い下げを願い置きたるアルムストロング砲来着。2月3日、加茂神社にて午砲試発。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1889年 明治22年2月11日 近代花火の時代に突入

大日本帝国憲法発布のとき、明治政府の官製の祝賀行事ではあったが、東京中が大変なお祭り騒ぎになった。夜に入ると宮城の二重橋の中から花火の打ち上げが始まった。これが現在に伝えられているテクニカルカラーの花火の初めであり、あまりの明るさと彩色の美しさに東京市民は大いに驚いたと言われている。以降、いよいよ本格的な近代花火の時代に突入する。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1889年 明治22年11月 下高井郡穂波村

下高井郡穂波村大字佐野(山ノ内町佐野)の3名が、愛知県の中根泰三氏から「一光神法」の免許を頂く。西三河では稲留流が広く一円に広まり流星は特に「矢」とも呼ばれ筒を必要としない手軽さもあって大発展をとげた。稲留流伝承者に中根泰三という者が居て、彼は尾州刈谷藩で代々栄えていた萩野流の相伝を受け、明治初年稲留流を改良して「一光神法」またの名を「一光流」と呼ばれる一派を編み出し、その名は三河のみにとどまらず、遠く信越までも伝わり、はるばる彼の土地より弟子を願う程であった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1889年 明治22年1月 火術伝来の書

元祖萩野流ヨリ免許一子相伝ヲ受 木筒ノ揚火ハ 一光神法ヲ受ケ候ニ付猥リニ伝授不致儀ニハ無之処格別ノ御然ル上ハ譬へ親子兄弟タリトモ神文無之方ハ他言仕見致間敷若相背クニ於テハ日本大小神祇蒙神罪モノ也

長野県下高井郡穂波村大字佐野
春日喜一郎 山本豊吉 古幡喜平

明治二十二年十一月
取次人 愛知県三河国東加茂郡穂積村大字酒呑村八番地 今井鉄五郎

愛知県額田郡奥殿村 士族 中根泰三殿
「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,87項」

1889年 明治22年 青木儀作

青木儀作氏 誕生(明治22年~昭和40年) 兵役後の大正5年に花火工場をつくる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」「参考文献 : 長野県歴史人物大辞典,赤羽篤 ほか編,郷土出版社,1989年」

青木儀作氏 誕生(明治22年~昭和40年) 芯入り割物花火の元祖、八重芯菊花型花火を開発し、名実共に日本煙火業界の第一人者で日本煙火芸術協会初代会長を務めた。工場は安茂里米村から平柴大黒山へ移る。二代目多門氏は儀作氏の息子で父と共にたずさわり技術力を生かした「椰子の木」を発表し、技術を公表し業界の技術力向上を図り親子二代黄綬褒章に輝く。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1889年頃 明治中頃 藤原善九郎

平柴の藤原善九郎さんは花火が好きで、明治中頃、三河から職人を連れてきて新しい技術を取り入れた。うちの爺さん(青木儀作)も花火が好きでやっていたから、善九郎さんに出入して懇意にしていた。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

1890年 明治23年2月11日 仙賀流煙火 仙賀佐十

憲法発布記念、東京不忍池でもまたまたその焼き付くような絢爛さに、文明開化を謳歌する各界の名士を魅惑していったのである。斯くして、三河煙火の有名を国中に高らしめたのてある。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,82項」

1890年 明治23年 岡崎 天満天神

岡崎には有名な天満天神の煙火がある。1890年(明治23年)現在の地(甲山中学校の西)に遷宮された時、煙火の製造と打揚げの許可を得た。これが天満天神の煙火の起こりであると言われている。この時の書類はいまだに岡崎市役所に保存されている。この警察署あての申請書に依ると、今回神社境内の氏子小屋を製造所として
五寸玉 二百五十玉
四寸玉 五十玉
を祭礼に奉納したいので許可していただきたい。
という旨が述べられている。この様にして、以来、毎年秋の祭りには手筒、打揚げが盛大におこなわれたのである。当時、氏子の伝馬町には萩野流煙火の有川屋があり、また門前町の稲垣兵次郎(またの名を張り兵)東加茂郡岩倉出身で伊賀町の稲留流磯谷金榮三郎などが共に協力し、菅生祭と共に岡崎三大祭の一つと言われるまでに発展していったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,91項」

古来より尾州徳川家のうち尾張藩、刈谷藩には砲術萩野流が伝わっていたが、その後此れが尾張、刈谷に留まらず、三河岡崎の地に萩野流煙火として栄えたことについては、いまだ、はっきりしないが、現在の岡崎市稲熊町はもともと天領であり1548年(明治17年)には酒井左衛門尉が治めていたこともあったが、1632年(寛永9年)から1649年(慶安2年)までは刈谷城主松平主殿頭忠房の所領となり、その後、明治までは再び天領として栄え、岡崎藩にて煙火打揚の禁止令が出されたとき、刈谷藩の稲熊に出向いて煙火を打上げた史実があり、多分こういった関係もあったのではないかと言われているが、それは兎も角として、かって伝馬町に近藤光四郎と言う与力がいた。彼は或る時、どこからともなく萩野流の仕法帳を手に入れ、以来煙火の魅力にとりつかれ十王町西照寺に建てられた墓を見ても、墓標は煙火の筒、花ツボは5寸玉が形どられているのを見ても解る様に、相当の技にまでなっていたのである。これが有川屋であり、現在まで延々としてその道で栄えているのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,91〜92項」

1890年 明治23年 米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 明治23年の内国勧業博覧会に出品された米子硫黄山の解説書によると、坑区面積は953坪、鉱石から直に切り取った硫黄は「鷹の目」「鵜の目」と称し、大きなものは高さ1尺5寸、広さ1尺、厚さ5寸で、「天然石ナレハ製錬品ト違ヒ光沢黄ニシテ美シキヲ以テ大ニ之ヲ信用シ床飾等ニ用ヒ、其小ナルモノハ花火薬剤等ニ用ユ」とある。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1890年 明治23年 長野停車場

長野停車場権堂間新設道千歳町開通式煙火 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1890年頃 明治中期 流星 矢

流星は煙火にもちいられて矢とも呼ばれ、その先端には傘などをとりつけたりし、筒の底につけられた導火に点火されて火薬が噴出しその勢いで空高く上昇し、その極限において爆発し傘は空中に散らされ風に流されて行くのである。または同様にその矢の先端につけられた煙火玉からは、美しい色彩を散らしたりしたのである。ところがこの玉が空中で破裂したのちはこの矢が非常ないきおいで落ちて来る危険があり、更にこの矢は風上に向かって飛ぶ性質があり、これを知らない観客はしばしば風上に集まってこれをながめたりしたため、この矢が人を傷つけ江戸時代より幕末にかけて、盛んに使用された矢もついに明治中期になるにおよんで禁止されたことはすでに述べた通りである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,113〜114項」

1891年 明治24年9月30日 妻科神社

妻科神社 奉納煙火の番付現存。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

1891年 明治24年 三水村普光俊徳神社

三水村普光俊徳神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1891年 明治24年 高野一道

高野一道氏(1833~1912) 蘭法医で順庵と号し、彼の仁術に浴した者は多かった。彼は余技として煙火打ち上げの技を研究し苦心の末、二尺玉を作った祖である。「雨宮県村誌」には次のように書かれている。一道は、三河国岡崎の旅廻りの花火師を彼の家に寄食させ、製法を学ぶとともに研究をした。 そして半年の苦心の末、正味一尺八寸の大玉を製造した。当時の筒は、鉄製ではなく松の木で筒に仕上げ、長さ一丈、底の直径五尺、筒口の直径二尺(二尺玉と呼ばれる所以)、これに竹のタガを隙間なく掛けたものであった。明治24年、一道は尺八寸の二尺玉二個を造り、秋祭りの晩に始めて打ち揚げる事になった。その評判は大したもので、近郷近在はもとより、長野、上田、遠くは三河、名古屋などから見物に来た者もあり、生萱の田は多くの群衆で埋まったという。しかし、これは失敗に終わる。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

高野一道氏 更級郡雨宮縣村生萱生 医師 二尺玉打ち揚げの先駆者。 尺八寸玉打ち揚げに失敗する。以前から製法を三河岡崎の花火師から教わる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

高野一道氏 長野恵比寿講の二尺玉の発祥の地で佐久間像山が大砲を鋳造し、試射ををした場所で蘭法医学を学んでいた当時19歳の高野一道ら地元の若者らが火薬に対する異常な興味を抱き、技術を学び二尺玉を作る事になる。隣村の菩提寺、禅透院境内の松の巨木を住職から譲り受け、長さ一丈、底の直径五尺、筒口の内径二尺の木筒に竹のタガを隙間なくかけて半年がかりで打ち揚げ筒を製造した。そして明治24年の秋祭りに尺八寸の大玉を二個作り生萱村の田んぼで打ち上げたが筒の中ほどが破裂して失敗に終わった。

1891年 明治24年 浅原神社

新潟県片貝町(小千谷市)で浅原神社奉納の3尺玉4個打上の記録あり。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1891年 明治24年 新潟片貝

新潟片貝で3尺玉揚げる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1892年頃 明治25年頃 満星 牡丹

星の製造にも一層の工夫が試みられ、明治中期すなわち、明治25年から30年頃には“満星”“牡丹”がすでに打ち揚げられ、明治の末期には殆どその大多数が出揃っていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,116項」

1893年 明治26年 三線路開き祝賀

三線路開き祝賀 煙火 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1894年 明治27年 藤原善九郎

藤原善九郎氏 長野市大字平柴生 明治から大正にかけて煙火の先駆者。北信地区に煙火組合を発足させ二十二才の若さで自ら組合長となる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

藤原善九郎 安茂里地区からは藤原善九郎ら花火の先駆者が出て、全国的にも活躍している。善九郎は花火技術の改良に取り組み、はじめて打ち上げ花火に色を付け、また、はじめて尺玉の打上に成功したという。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

藤原善九郎 平柴の入り口には藤原三代の碑がある。平柴の藤原巻には製紙王と言われた藤原銀次郎氏(1869~1960)がいる。政治家、医療国営論を提唱した鈴木梅四郎氏(1862~1940)も平柴出身。

藤原善九郎 青木儀作さんも鈴木元義さんも諏訪の市川さんも藤原章さんもみんな藤原善九郎さんに教わった。

1894年 明治27年 藤原章

藤原章氏 生まれる 平柴出身 信州煙火工業初代 平柴で奉納煙火やっていただろう

1896年頃 明治20年代 川開きの花火

川開きの花火 平出鏗次郎(ひらでこうじろう)著「東京風俗志」の内容を見る限りは、明治20年代の川開きの様子は江戸時代の川開きとちっとも変っていなかったようだ。しかし、打ち上げる花火の内容はがらりと変わって彩色も豊かになり、姿や形が一段と大型になっていたし、街灯なども整備され、夜間になっても容易に出歩く事が出来るようになったことから、観客は江戸時代の比ではなくなったはずである。川開きの大花火も全盛時代を迎えたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1897年 明治30年8月11日 両国川開き

両国川開きの際、両国橋が崩れ途中中止。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1897年頃 明治30年頃 千輪菊

千輪菊と云われている煙火は玉の中の星を紙で包んだもので更にこれに導火線をつけ、玉が割り薬で爆発したとき紙で包まれているために星には直接に着火せず、導火に火がうつりこの星がある一定ノ距離に四散させられてのち、この導火が星の色薬に火を入れ、導火に火のうつっている間は光跡は目に写らず、したがって一度にパッと彩色が現れるようにされたのである。この初期は“単色満星”、二色が混じっている“染込満星”更に二色以上の色の変化を示すものなどが明治30年頃には出揃っており明治末期には“隠顕星”のように単色満星が消えて後他の彩色の満星をあらわすもの“染込変化満星”と云われ染込満星が変色して更に染込満星に変化するなど、その他単色満星が変化して染込満星になる“変化染込満星”などの色彩変化に富んだものが盛んに打ち揚げられていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,116〜117項」

1898年 明治31年11月 恵比寿講大煙火

恵比寿講大煙火始まる 以降毎年11月20日に行う 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1898年 明治31年11月 三戸部織之助

恵比寿講の大煙火 明治31年以降では、生萱の尺8寸5分の大玉の来たこともあり、東京の玉屋は申すまでもなく、下総の岡田さんも来れば、三河からも来る。また越後の田崎さんも来るという風で、毎年目先の変わった煙火も増えました。若槻村 三戸部織之助氏

1898年 明治31年 恵比寿講大煙火

恵比寿講大煙火について民俗学的立場から考察。 なぜ夷講に花火をするのであろうか。前述のように夷は、遠くから寄り来る客神である。山国信濃では夷は天から山の頂に降臨すると考えられていた。その天降りつく場所を知らせる為の合図の火祭りの変形として花火を打ち上げる様になったのではないか。信濃において、10月11月に各地で行われた、風祭、松明祭、夷講等の宵祭りに、遅くまで大火を焚いたり、大松明に火を付け、転がし投げて練り歩く行事が見られる。この火祭の客神への合図の火が、火よりも高く上がり、明るく輝く花火に移行していったのではないか。妻科神社の森花火も、田の神が天降りつく喬木を知らせる為とも考えられる。又、野尻湖、諏訪湖、浪鶴湖で盆に行われている花火も、黄泉の国から降り来る霊の目標としての、どんどん火や高燈籠の火の変形であろう。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1898年 明治31年 長野市初の発電所

茂菅の仁棚へ長野市として初めての発電所ができ、長野地方に電灯が初めてつく。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1898年 明治31年 長野市桐原清林寺

長野市桐原清林寺 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1898年 明治31年~ 長野市七二会笹平

七二会郷土歴史資料館 3寸~7寸の木筒3本現存 筒は七二会笹平地区の祇園祭で使用されていたもの。7月中旬に1週間に渡り催される祇園祭の前夜祭に、疫病対策として煙硝の煙が効果があるという事から集落の山手で打ち上げた。明治31年から開催の長野恵比寿講の花火を見た地区の氏子が技術を学び、自分たちの地区でも花火を打ち上げた。昭和初期には法律が変わり、資格を持った者が許可を得なければ花火の製造ができなくなり、筒は使われなくなった。筒は笹平地区の春日丘神社に保管されていた物を、七二会郷土歴史資料館の完成に合わせて資料館で保管する事となった。 「参考資料 : 七二会郷土歴史資料館」

1899年 明治32年7月 鉄砲火薬類取締法

鉄砲火薬類取締法 制定「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,65項」

1899年 明治32年 鉄砲火薬類取締法公布
鉄砲火薬類取締法公布。日清戦争を経て、軍用の火薬にも不足し、民間の火薬製造を許可することになる。煙火、爆発質玩弄品(玩具煙火)という言葉が使われる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1899年 明治32年 煙火共進会

この頃、各地で煙火共進会が行われる。型物花火登場。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1899年 明治32年11月20日 恵比寿講煙火大会

恵比寿講 長野市有志8名(大門町ふじ善蕎麦屋主人、五明館旅舎主人 他)が発起人となり、商工業の発展を目的に、恵比寿講煙火大会を鶴賀遊郭の高土堤にて打ち上げる。四寸五寸が主で7号玉や尺玉は珍しかった。長野県下では、上田あたりが随分古くからやっていたらしい。上田の恵比寿講の繁盛ぶりを、ふじ善蕎麦屋の店主が見て長野市に持ち込んだ 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

恵比寿講 商品の販売競争が激しくなる中で、明治末期から、商店共同の花火の打ち上げや景品付き大売り出しなどによる客寄せが盛んとなった。長野市の名物恵比寿講の大花火は明治32年に始まった。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第八巻 近代二,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1899年 明治32年 煙火天狗

煙火天狗 長野で初めて開催された恵比寿講大煙火で打ち上げたアマチュアの花火師で、当時は専業の者は無く誰でも好きな者が製造して打ち揚げる事ができた。三戸部、金箱、西沢、石黒、轟、松浦、安茂里、山勝、六川、更級流などが高土堤十ヶ所に陣屋を構えて交替で打上げた。高土堤での花火打ち上げ準備写真が「長野市誌 第八巻」にあり。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

19世紀 北信の煙火について

北信の煙火について 北信地方の地域性は煙火を奉納物として打ち上げる習慣が残っているということである。19世紀から始まったとされる煙火製造は、当初、神社の奉納物として住民らによって製造・打ち上げが行われていた。しかし、1910年の鉄砲火薬類取締法の改正により、業者が専業化することになった。これにより、煙火の製造と打ち上げは住民らが行うものから業者が行うものへと変わったが、住民による奉納物としての役割は残った。現在も北信地方の秋祭りでは、集落単位あるいは個人単位で出資して煙火を打ち上げており、当時の形式を残していると考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

明らかになった存立基盤は、次の2つである。第一に、北信地方には長野えびす講や千曲川河畔納涼花火大会などの大規模な煙火大会だけではなく、地域住民らによる煙火大会や集落規模での秋祭りなど、様々な規模で煙火大会が催されている事である。これは煙火産業への需要が多いことを意味しており、産業を支える重要な要素である。第二に、煙火業者ごとの営業範囲が地域で決まっているという事である。これにより小規模な煙火業者の打上の機会が維持されることになり、存続を支えていると考えられる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

北信地方における煙火産業の存立基盤を、煙火業者とそれを取り巻く地域との関係から考察してきた。当地域の煙火産業の起こりが奉納煙火だったことから、地域と密接に関わりながら発展してきた。そこでは、地域側の需要があるから煙火産業が成立している一方で、煙火産業があるから地域側の需要が発生しており、相互連関的な繋がりが産業と地域文化を成り立たせている事が明らかとなった。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1900年 明治33年10月 高野一道

高野一道氏(1833~1912) 明治33年まで、村の小学校は雨宮の来迎庵という廃寺を使用していた。この年10月、校舎が唐崎に新築され、運動場もない障子の学校から、広い校庭に建ったガラス戸の洋風の校舎に移った。村の理事者は、何か催しをして、この喜びを記念したい意向であった。協議の末、開校式には二尺玉の打ち上げをし、祝意を表すことに決定し、一道を訪れ依頼した。そして一道は、これを全国に先駆けて見事に成し遂げたのである。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

高野一道 明治33年(1900年)雨宮小学校の開校式に、二尺玉を打ち上げ祝意を表す事が決定し、依頼を受けた。二尺玉打上前の木筒と玉が写った記念写真が現存。一道は、二度と失敗しないように大筒の爆発を防ぐ工夫(箍を1つおきに強く・緩く締め直した)又、火薬の量も永年の経験に基づいた知恵で量を決めて打上に備えた。当日は三発の花火を用意して、噂を聞いた近郷近在遠方の人々約五万人が埋め尽くし見守る中、三発共に打上は大成功のうちに終了した。その後、大正10年(1921年)天皇が欧州旅行から帰国される日の歓迎式に信州煙火同好会が二尺玉五発を打上げて東京人を驚かせた。これ以来、長野県の花火は日本一の名声を挙げた。その陰に、高野一道あり。明治34年(1901年)生萱区民は一道の徳をたたえて生前に銅像を建てた(埴科縣神社の参道の横)が、大東亜戦争に際し金属回収により供出された。その後、親族により昭和53年11月に再建された。明治45年(1912年)1月に80歳で死亡。 「参考文献 : いきがやぶらり歴史さんぽ,生萱を知る会」

高野一道 銅像と尺木筒現存。尺木筒高さ:180cm、筒穴深さ:145cm、筒口内径:31cm、筒口外径:50cm。 「参考資料 : 千曲市生萱 埴科縣神社参道の横」

高野一道氏 雨宮県尋常小学校の校舎の落成式に二尺玉を3発打ち上げた。重さはそれぞれ十二貫、十四貫、十八貫の三個で、周辺では評判になり上田、長野、西山中などから群衆が押し掛けた。釣り星五個が風に揺られ大浦山へ流れた。大筒の破裂を恐れ今回は打ち揚げ火薬を五十六匁に少なくした。

高野一道氏 二尺玉打ち揚げの先駆者 尺八寸玉打ち揚げに成功する。現更埴市生萱の田んぼにて。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

高野一道氏 第二回恵比寿講大煙火に尺八寸五分の千輪を持ち込み午後九時に打ち揚げた医師で、翌年の明治34年にも尺八寸を持ち込んだ。

1900年 明治33年11月20日 恵比寿講

恵比寿講 高野一道が二尺玉に成功した明治33年には、花火においてもうひとつの画期的なことが行われた。長野の冬の風物詩となっている、夷講の仕掛け花火が、西之門町の鷲沢平六さんの後援で、初めて柳町の高土手から打ち上げられたことである。県下に23軒あった煙火師が全員参加し華やかに行われた。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

恵比寿講煙火大会に更級郡生萱の医師、高野氏が、二尺玉を産み出すべき始まりをなしたとも言われる一尺八寸玉を揚げる 3発の打上に成功 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

1900年頃~1910年 明治30年前半~43年 花火ブーム

日露戦後の花火ブーム。このブームは茨城県や長野県など近県の花火業者が東京の両国の花火に進出するなど、花火市場を全国規模にした。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

1901年 明治34年 高野一道

高野一道氏 二尺玉打ち揚げの先駆者 長野恵比寿講に昼玉尺八寸玉打ち揚げる。尺八寸玉、当時は二尺玉と呼んだ様です。※内径二尺の筒で尺八寸玉を打ち上げた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1901年 明治34年10月13日 銅像

高野一道氏 銅像 生萱区の埴科県神社前に高野一道の全身像が建てられた。一に仁術、二に二尺玉の元祖として門弟らの浄財金を集めて建てられたが、昭和18年夏の大東亜戦争のさいに金属回収により供出され現在は台石のみが残っている。

1901年 明治34年10月末 中野市竹原の花火

中野市竹原の花火 恵比寿講で火矢が肩から脇腹へグサッと刺さり煙火大会は中止。日清戦争の兵士の送迎、竹原のお宮の祭典、花火に熱中して財産を売った、火薬で失敗して家を焼いた、等の数々の話の種を残して、竹原の龍勢はこの夜限り永久に禁止された。源流は三河の火術に二派あって、「イッコウ流」「タイセイ流」の内「イッコウ流」が竹原へ来ているのだという話までで、何年頃誰が、となるとさっぱり判らない。今になれば「イッコウ流」という意味と文字も判らない。※三河の煙火資料に「一光流」の記載あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」「参考文献 : 竹原の花火 竜勢物語 「高井」6号,小野沢良秀,高井地方研究会,1968年3月10日」

1901年 明治34年11月18日 恵比寿講

恵比寿講 長野大花火の椿事 恵美須講の余興ともいうべき煙火よりして即死1名負傷者5名を出したるこそ無残なれ。流星(平岡村、現中野市竹原で製作)の矢殻が右の肩先ズバッと貫かれ悲惨死(浅川村門沢、塚田与右衛門)。流星の矢殻に右脚腹部を貫通せし程の重傷を負いて入院(上水内郡富士里村17才)。更級村煙火製造人(51才)は煙火玉を抱き居たる時火が移り爆発し重傷、その場に居合わせたる製造人3名(30才、14才、49才)軽傷。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 流星で死亡事故が発生し、以降流星は禁止となる。中野市平岡村竹原の武田元一朗の竜勢。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1902年 明治35年 仙賀流煙火 仙賀佐十

煙火の研究中、突然爆発し仙賀佐十は50才を出ずして此の世を去り、さしもの仙賀流もまだ後継者のないまま、僅か一代で終わりをとげてしまったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,82項」

1902年 明治35年11月20日 恵比寿講

恵比寿講 医師、高野氏の一尺八寸が3発持ち出され人気の焦点であった。昼の部の2発は完全に打ち揚げられ、途方もない大きな傘が宙空に開いた。夜の部の1発は事故の為打ち揚げできず。翌日に打ち揚げた。 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

恵比寿講 一度目の事故 立入禁止区域内に潜んでいた男の脳天に流星が刺さり絶命。久しく珍重されていた流星は煙火中の最も危険なるものとして時の官憲の忌避にふれ、其の後永遠に打上禁止の運命となっているのである。 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

恵比寿講 煙火の寄付集め、私財の持ち出し、準備と後始末、苦情処理に耐えかねて、鶴賀新地に一切の事業を継承。 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

1903年 明治36年5月 スターマイン

両国川開き 日本初の速射連発花火。11代鍵屋はマニラでスターマインと出会い、8月の両国川開大花火で初公開した。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1903年 明治36年8月8日 両国川開き

両国川開き 番付に「ツターマイン」の記載あり。鍵屋当主がフィリピンで花火を上げた際に、現地の方法を学び持ち帰ったと後年語っている。 「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

1904年~1905年 明治37年2月8日~明治38年9月5日 日露戦争

日露戦争

1905年 明治38年9月5日 日露講和祝賀煙火

日露講和祝賀煙火 明治38年9月5日、ポーツマス条約調印。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1905年 明治38年11月 恵比寿講

恵比寿講 煙火大会に東京から玉屋を招き大門内で仕掛け花火をやる。東京玉屋の五分間50発の投込み速射は田舎では珍しい事であり、拍手喝采を浴びた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 山口伊吉氏が審査委員長となり成績優秀な煙火師に優勝旗を授与し、大いに技術の発達を奨励する。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1905年 明治38年 米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 明治38年に須坂硫黄会社が起こり、後、信濃硫黄株式会社と経営者が変わる。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1906年 明治39年5月 高野一道

高野一道氏 二尺玉打ち揚げの先駆者 岡崎市にて尺八寸玉を揚げる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

高野一道氏 二尺玉を愛知県岡崎に送り評判をとる。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1906年 明治39年 長野市西長野

加茂煙火会 発足。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1907年 明治40年10月 松沢火薬

松沢火薬 衡器(重量をはかる器具、秤、天秤)製作人として松沢龍右エ門氏が免許申請し交付される。それまでは江戸で作られた衡器や升を使用していた。江戸から信州までは「御用」の札を立てて衡器を運んだとの事(昔、御用札が松沢火薬にあった)。織田信長から豊臣秀吉へという全国統一の流れの中で、納める年貢の量に直結する「升」を量るための枡を全国共通のものにする必要が生じた。江戸幕府は江戸と京都に「枡座」を置いて枡の大きさを厳密に統制したので、江戸時代の約300年間大きさの統一が保たれた。松沢火薬は秤を扱う会社としての信頼があった為、後に火薬を扱える事となる。全国的にみても、秤を扱っていた火薬屋は多いとの事。 松沢火薬

1907年 明治40年 流星

この頃、西三河地方で流星「矢」花火が流行。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1907年 明治40年 硫黄

医薬に用いた硫黄 わが国では、江戸日本橋河野屋伝授の肥前薬としての製法や、また明治40年版の石原弘編「薬物学」を見ると、粗製硫黄は外用に、精製硫黄は主として内用薬に供していたことがわかる。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1907年頃 明治40年代 更埴市稲荷山治田神社

更埴市稲荷山治田神社 今までは主に打上花火のみであったが、広大な治田池を利用して水面全体に仕掛け花火を行うようになり、更に飾り物と称して歴史の一場面とその年に題名を付けて人形を飾り、人形の胴体部に塩硝を仕掛けておき、あたけ花火として登場させた。頭領の指示のもと、花火係と人形係に分かれて作業。花火係は、導火線用の和紙の切り出しから導火線作り、用途別に法帳により調合、庭花火の塩硝詰め、西洋火作り、仕掛用枠作りをした。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1908年 明治41年9月 藤原善九郎

藤原善九郎氏 共進会準備及び共進会の大煙火 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1910年 明治43年 尺八寸玉(18号玉)

塩素酸加里の輸入により、三河煙火が一大改革を迎えた後、1910年(明治43年)、名古屋市で共進会が開催され、その時、長野市から尺8寸(18号玉)が出品された。当時、打ち揚げ玉としては普通、5寸(5号)・7寸(7号)で大きくて1尺(10号)位のものであっただけに、この尺8寸と言う玉には、流石全国一を誇っていた三河人も、その大きさに仰天した。その玉と筒に危険を感じた共進会では、協議のすえ、遂にこれを拒絶してしまったのである。出品者が、このまま持ち帰ることを潔しとしなかったことは当然で、この玉は岡崎市の煙火家外山愛治郎のところへ持ち込まれたのである。そこで、愛治郎は早速その木筒に竹タガをはめた巨大な筒と玉の模型を同市両町の徳王神社境内にすえて、一般に公開することにした。それを伝え聞いた人々は、三河の各地から腰弁当にワラジ履きで四・五里の道も遠しとせず、続々と境内につめかけ、日毎に押し寄せる見物客は数千人、十数日もその盛況はつづけられたのである。見物客達はこの玉を取り囲んで、この大玉がみごとに打ち揚がるかどうかと、その議論に熱況する有り様であった。それに刺戟されて、直にその製造がこころみられ、大隈伯歓迎用煙火として打ち揚げに成功したのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,93〜94項」

1910年 明治43年3月 藤原善九郎

藤原善九郎氏 長野市大字平柴生 明治から大正にかけて煙火の先駆者。名古屋市で開催された第十回関西府県連合会共進会に、当時未開発であった二尺玉を出品し花火先進県の愛知県をびっくりさせたことは有名な話である。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1910年 明治43年 稲垣欣弥

これらの人々とは多少異なった意味で、三河煙火の発展に偉大な功績を残した人の中に、2代目島清力之助からその系統をひいた岡崎市羽根町ノ稲垣欣弥がいた。父稲垣金太郎は、晩年、武田流伝来の煙火用硝石製造をはじめ、その長男欣弥が後をついだのである。欣弥は伝来の硝石を造るかたわら、1910年(明治43年)萩野流近藤藤四郎からも煙火の技術を習い、原料の硝石製造のみにとどまらず、煙火製造にもその名をなし、絶えず、その研究に没頭したのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,101項」

1910年 明治43年 鉄砲火薬類取締法改正

鉄砲火薬類取締法 改正「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,65項」

鉄砲火薬類取締法改正。煙火製造の規制が始まる。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

鉄砲火薬類取締法改正(営業許可制) 営業許可制、火薬類取扱免状制度を定める。玩具煙火製造は都道府県知事の許可制となる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1910年 明治43年 加藤長之助

三河の中で、特に、打ち揚げの名手と言われた人に、西尾市羽角の加藤長之助(明治20年生)があった。最明流加藤小兵の長男として2代目最明流をついだ長之助は、許可制が施行されると、全国の煙火家に先がけて「火薬類(煙火)製造主任」の第1号として登録されたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,96項」

1910年 明治43年 麻績の花火

麻績の花火も盛んだったが、鉄砲火薬類取締法により縮小、衰退していく。

1910年頃 明治43年頃 蛙川源次郎 島清

関西地方においても三河煙火の名は高く、京都伏見に古来より蛙川家がその名を高めていたが、2代目「島清」力之助の名をしたって蛙川源次郎は三河をおとずれ、当時の島清六代目、伝三郎のもとに弟子入りするなど、三河煙火は日本の東西をとわず、着々と全国にその位置を築き上げていったのである。
「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,96項」

1911年 明治44年3月 鉄砲火薬類取締法

銃砲火薬類取締法施行規則の公布をよぎなくされ、これによってがん具煙火は、がん具用普通火工品という名のもとに取締対象外とされ、その製造販売その他一切の取締は庁府県長官とする、と言うことになったのである。
「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,65項」

1912年 明治45年 三河煙火同業組合結成

三河煙火同業組合結成。組合長磯村宗五郎、副組合長稲垣軍次郎他で当時の全県生産玉数12万個となっている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1912年頃 明治45年頃 藤原章

藤原章氏 20才前後。善光寺大門の現在の八十二銀行の場所にお土産屋を出す。お土産屋に煙火部もあったか。西長野の桑畑の中に煙火置場があった(里島の発電所の方)。

1912年頃 明治末期 本宗

「幻の火術師」として、詳しいことはいまだ解明されていない煙火師の1人に、明治末期の頃より碧海郡矢作町本郷に、通称「本宗」と呼ばれた武田流の「煙火の上手」がいた。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,98項」

1912年 明治末期 飯縄煙火

飯縄煙火 明治末期、当時区内の若者達の発願により村社の秋季例祭に仕掛花火を奉納した。新奇な花火に対する村民の好奇心も加わって年々盛んになり近隣の地区でも競って花火を打ち上げるようになった。 「参考文献 : 茂菅区誌,茂菅区誌編纂委員会,茂菅区誌編纂委員会出版,1978年11月3日」

飯縄煙火の起源 若者達の発願により村社の秋期例祭に仕掛煙火を奉納した。後の飯縄煙火は鈴木煙火店、藤原煙火店の指導あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1912年頃 明治末頃 藤原善九郎

藤原善九郎氏 平柴に花火工場を建てる 政治家でもあり、書家でもあった。明治の末期三河より優秀な花火職人を招致し、現在の公会堂前に花火製造工場を建て、新しい煙火薬品を導入し花火技術の向上を図り、新しい花火の開発に努めた。初めて打ち上げ花火に色を付け、初めて尺玉の打ち上げに成功した。三河の武田流、外山愛次郎(旧姓稲垣)と稲垣傳三郎は兄弟で恵比寿講煙火に参加し、藤原善九郎とも交流があり信州の煙火にも影響があった。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1912年頃 明治末頃 火薬類の取締り

火薬類の取締りが次第に厳しくなり、煙火の製造も工場施設を持ち、製造の資格がなければ出来ないようになった為、大部分の神社では若衆による煙火作りは中止されてしまいました。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1868年~1912年 明治時代 木筒

上水内郡豊野町石区 個人宅に木筒現存 筒口内径:12.5㎝ 筒口外径:21㎝ 筒底外径:23㎝ 筒高さ:54㎝ 筒穴深さ:35.5㎝ 筒穴深さ(玉が入るスペース):29.5㎝ 筒穴深さ(打上火薬を入れるスペース):6㎝ 臼砲のように砲身が短く薬室がある 詳細は不明だが大正10年頃に鉄筒が考案され製造されるまでは現役だったことには間違いない。

1868年~1912年 明治時代 瓜割煙火

瓜割煙火 有志の持ち寄り花火だった 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1868年~1912年 明治時代 妻科神社

妻科神社 杜花火の最盛期 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1868年~1912年 明治時代 明治の花火師

信濃毎日新聞に「明治の花火師」という本がある。

1881年 明治14年 三河煙火

豊橋の燦煙社が疋田又衛門をアメリカに派遣し、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアなどの各地で煙火を打ち揚げ大いに人気をさらい、三河煙火はついに遠く海を渡ってアメリカまで進出し、ここに於いて、三河煙火の輸出が大きくクローズアップされるに至ったのである。
一方、西三河では稲留流が広く一円に拡まり、流星は特に「矢」とも呼ばれ筒を必要としない手軽さもあって大発展をとげ、その規模も言語を絶する程となり、矢がけのやぐら八間、矢竿十間、矢羽根三間、矢がけのやぐらには船の帆柱を利用し、三間の矢羽根には傘百本をとりつけ、このやぐらによじのぼって筒口に火をつけた。打揚られた流星からはこの百本の傘が空中に飛散乱舞したのである。
この様子を「嬉遊笑覧」には「見物もなびくすすきの花火哉」と評しており、見物客たちは風に乗って流れる傘にしたがって、あちらへ流れこちらへ流れしていたのであろう。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,82〜83項」

1912年頃〜1967年頃 明治末期〜昭和42年頃 瀬沼煙火興業(現在、小千谷煙火興業)

二代目國太郎氏と三代目忠雄氏、冬季は長野県の鈴木煙火店に従事し、技術交流をした。「2023.11.26 小千谷煙火興業 瀬沼輝明氏」

1912年頃 明治末期〜大正初期 がん具煙火

明治後期になって、ストロンチウムが利用され、撚り煙火も一層と美しい色彩をそえ、小児、女子等に、特に喜ばれる「ロービ」が出現しはじめるのである。紅には炭酸ストロンチウム、緑には硝酸バリウムが用いられ、その一例をあげれば次のようである。紅色―炭酸ストロンチウム28%、塩素酸カリ60%、樹脂7%、木炭5%。緑色―硝酸バリウム33%、塩素酸カリ50%、樹脂10%、木炭7%。また筒物として吹き出しが製造された。これははじめ葦の管に火薬をつめてその外側を色紙で巻いたもので、点火した時に発する火の状態から一般には、フウフウと云われたものであった。これも次第に葦の管から青竹が利用され、その堅固さから安全性も増したものとなってきたのである。いよいよ大正の時代になるにおよんで、アルミニウム・マグネシウム等が、がん具煙火に応用されはじめ、その進歩も次第に急速になってくるのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,105〜106項」

1912年頃 明治末期〜大正初期 太田続吉

太田続吉は乱玉を作り上げた。はじめ竹筒に火薬と星を詰めて、空中に打ち揚げ子供達の夢と希望をみたし、また、紙管の発展にともない大量生産も暫時可能となってきたのである。この乱玉と云うのは、発火薬に点火し、その後、星の表面の着火薬を通じて発射薬に点火し、星に火が入って散る前に、その星が夜空に打ち上げられてのち、火を引いて上昇し、最高点に達するまでにだいたい燃え終る。それが連続的におこなわれるもので、大正中頃になるとその星の数も次第に増し、3発くらいから5発・7発とその数を増していったのである。また、この連続的につづいて星の打ち出される乱玉に対し、一発もので、そのかわり星を大きくした乱玉の変形とみられるスターマイン等が製造された。この星は、はじめは乱玉と同様の星であり、少し径が大きい程度であったが次第に発展し、遂には破裂する星、すなわち、塩素酸カリと鶏冠石の配合薬が導入され、星が打ち上げられた最終に音を発する星等も使用されるようになったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,106〜107項」

1912年頃 大正初期 瓜割煙火

瓜割煙火 大綱火成功 苦心滲んだ研究の末、3年にして頂上まで上げる事に成功。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

瓜割煙火 瓜割煙火会が組織化されていた。お宮に煙舎小屋があり、煙火の準備は例年8月に入ると桐・松・麻等から炭を作ると同時に立火・滝・綱火用の竹を煮る事から始まり、毎晩擂鉢で顔を黒くして炭を擂る事が習わしだったが、近年は花火工場にて行っており、昔は西沢煙火店・花屋鈴木煙火店、現在は信州煙火工業・紅屋青木煙火店から助言・指導を受けて行っている。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1912年頃 大正初期 加茂煙火

加茂煙火の起源 後に西沢煙火店、藤原煙火店の指導あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1912年 大正初年 二尺木筒

二尺木筒にタガをはめている写真 火薬の炸裂に耐えられるよう筒の強度を増すために竹の箍をはめている作業風景で、大正時代の初めに撮影されたものです。 「参考文献 : 長野市民新聞連載 「写真は語る 長野市公文書館資料」6,2尺玉で名をはせる  ‐晩秋の夜空を彩るえびす講 名煙火師‐ ,松島 耕二 著,長野市民新聞,2014年7月19日12頁」

1912年〜 大正時代 菊先の二化

ところで幕末から明治初期を経て大正に進むにつれ、ストロンチウム・バリウムなどの色薬が使われ更にアルミニウム・マグネシウムなどが使用されるにしたがい煙火も一段とその変化を示し、一番はじめに光った色を菊の花と云い、次に緑色などを現わし次いでもう一度変色しその花の中心に紅色の星を表現した。この煙火を“紅芯菊先の二化”と云うのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,115項」

1912年〜 大正時代 引火

引火は、はじめ炭の粉、鉄粉などが使われその殆どが赤色またはせいぜい黄色であったがアルミニウムなどが輸入されるにしたがい、その光輝は一段とそのさえを見せ、輝白色の引火をえがきだし、またその粒子の燃える時火花を出すなど、光の揺れやまたたきを与えるようになり、その見た感じで“霜、露雪、銀波、さざ波、銀爛、錦”などと呼ばれるものなどが出来はじめたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,115項」

1912年〜 大正時代〜 柳 雨

大正時代になるにおよんではアルミニウム・マグネシウムなどの使用が一般化され、それ以前より“柳”なとはすでに現れ観衆の目を楽しませるにいたっていたのである。引き星を菊とは反対にゆっくりはじき飛ばした場合には先がたるんで下降して“かむろ菊”ができ更にたるませた場合、すなわち割り薬の力を弱めた場合には“柳”ができ、また“片引の柳”と云って斜め下方に一方的に打ち出したものなどは明治初期にすでに現れていたが、これにアルミニウムなどが利用されそこ引き星の光輝を増しまた、この星の数を増やすなど、光芒に変化をあたえたものなどが大正初期には見られていたのである。すなわち、この引きを細く数多くし、更に光輝をあたえた“雨”星が光芒を粗く残しつつ飛ぶ“鹿の子”などまた“錦”と云われ、星が光を細く明るく残しながら散っていくものなどがあり、これら柳・雨などはいづれも弱く玉割れするいわゆるポカものの一種である。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,117項」

1912年 大正時代 煙

有機色素などが盛んに使用された昼煙火の煙などに大いに使用されその例をあげると次のようである。
白色煙 塩化亜鉛、炭酸石灰、四塩化炭素、クロム酸カリ、硝石、硫黄、亜鉛末、樟脳の和剤
赤色煙 パラニトロアニリン赤、塩素酸カリ、蔗糖
紫色煙 ガロシャニン、塩素酸カリ
黄色煙 硝石、硫黄、鶏冠石
青色煙 メチレンブルー、塩素酸カリ、グリセリン
黒色煙 アントラセン末、アントラセン油、過塩素酸カリ、ナフタリン
このようにして青空に開いた白菊、黄菊は全く優雅そのものであったことだろう。また、この煙においても菊のように早く引くものばかりでなく“片引きの柳”“雨”なとがあり、あるいはパラシュートに吊るした発煙筒から、煙をもくもく噴出させた“柳に彩煙竜”や“雨中玉追竜”などはその極致であった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,117〜118項」

1913年 大正2年 三河煙火組合

「大正デモクラシー」の言葉で表現されているように日本各地に於ける産業界の組合結成運動の急速な発展を導き、1917年(明治6年)頃を境として、急激に組合結成の増加が進められていったのである。この時代的背景とあいまって、西三河においても外山愛二郎・稲垣軍次郎らは煙火家の結集に奔走し、大正時代の初期には西三河煙火組合が結成されたのである。その後、2〜3年を経て、1913年(大正2年)から、翌年の1914年にかけては、更にその強化がさけばれ、東三河をも含めた三河煙火組合が再編成されたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,96〜97項」

1913年 大正2年 加藤長之助

三河煙火組合長に選ばれた長之助は、その後、1923年(大正12年)、再び愛知県煙火組合として再発足するにあたり、その初代組合長にも就任したのである。以来、1942年(明治17年)の約20年間、しばしばその任に就き三河煙火の発展に尽力したのである。と同時に、「打揚煙火の名人」として人々の間に長くその名を誇っていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,97項」

1913年 大正2年 恵比寿講

恵比寿講 尺玉速射は全て21発になっている。軍隊の礼砲に関連しているか。元首、皇族に対しては21発(礼砲としての最大発射数)。礼砲間隔は5秒ごとが標準とされている。弔砲は17発。午前五時より祝砲百発。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 番付表から新諏訪町に煙火製造人は西沢長蔵と白谷萬蔵の二人がいた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1914年 大正3年3月20日〜7月31日 大博覧会

竹の台・不忍池畔の2大会場には、北は樺太(現在ソ連領)から南は台湾(現在中国)まで、さらに当時、日本の領土であった朝鮮などを含め、日本国中、各県の名産・特産物が出品陳列されたのである。この大博覧会に、三河では近藤光四郎(有川屋)の後をついだ2代目藤四郎が三河煙火をもってはるばる上京したのである。
「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,94項」

1914年 大正3年 煙火取締規則公布

長野県令 煙火緩燃速火線及び煙火取締規則公布

1915年 大正4年 恵比寿講

恵比寿講 遊郭の手を離れて商工懇話会の手に移る 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

1915年 大正4年8月20日 長野県煙火組合創立

長野市城山館にて長野県煙火組合創立 会長は藤原善九郎氏(信濃煙火合資会社社長)。副会長原五郎兵衛氏(飯田)。製造者県内に78名(北信で25名)。事務所を上水内郡安茂里村信濃煙火合資会社に置く。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1915年 大正4年11月21日 煙火密造し検挙

煙火密造し検挙 信濃毎日新聞紙面に、下水内郡岡山村で密造し検挙され証拠品に道具、薬品、煙火を押収されそれぞれ検事局送りとなる。20~23才の若者が窃取したり密造したものを、購入した様に偽装して打ち揚げていた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1916年 大正5年11月20日 恵比寿講

恵比寿講煙火大会は長野商工懇話会の主催となり、鷲沢平六氏が陣頭に立つ。西長野の煙火師、西沢長蔵氏 高土堤にて二尺玉を3発打ち上げる。担当煙火師は14名 藤原善九郎、藤原章、西沢長蔵ほか。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 西長野の煙火製造師、西沢長蔵氏が二尺玉を打ち上げ大成功。打ち揚げ筒も西沢長蔵氏が心配して整えてあった。木製の打ち上げ筒は其の場限り廃物同様になった。 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

恵比寿講 長野市初の二尺玉の玉名。昼玉「紅頭白菊に小割相生烏黄煙龍」。夜玉「菊先小波に小割松嶋の夜景」「五色変色千輪菊」。打ち揚げ火薬二貫目で一つの玉の中に三寸玉が130に四寸玉が15~16と割薬四貫目であった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 煙火競技競射受賞者 一等、西長野、西沢長蔵(銀葉先の紅青小割松嶋の景)。二等、上伊那郡、下平大蔵(水光星)。三等、上水安茂里村、藤原善九郎(銀錦先紅青変化に松嶋の夜景)。四等、上高井上村、清水梅治(新製紫鹿の子満天○山の白牡丹)。五等、上水安茂里村、藤原章(銀波先再変化松嶋の夜景)。六等、上高井須坂町、篠原茂助(銀○先紅緑変化に菊模様)。七等、上水大豆嶋、小岩井栄太郎(秋夜の楽)。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1916年 大正5年10月 中野煙火

中野重太郎は、1916年(大正5年)10月、中野煙火を創設し、成瀬晋吉らとともに、その発展に尽力し、成瀬煙火をたすけ、その依頼により一手にその製造を引き受け、つぎつぎに仕掛け煙火を創りだし、現在の仕掛け煙火の種類の元祖とまで言われるにいたったのである。中野煙火はその後、中野七郎によって受け継がれていった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,98項」

1916年 大正5年 長野県煙火組合

1916年時点での長野県煙火組合の組合員数は、北信23名、東信13名、中信9名、南信28名の計73名である。北信と南信の組合員が多く、北信地方と南信地方の煙火産業が盛んであったことがうかがえる。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1916年 大正5年 藤原煙火店

藤原煙火店 藤原章氏 長野市安茂里出身 藤原煙火店初代 後にスターマインを考案。工場を加茂小学校グラウンド南側に設け、その後小柴見(現在の筒置場)へ移り、昭和53年茂菅町仁棚(長野県初の発電所跡)に移る。章氏は玉の消費拡大を図り、スターマインを考案し県外への消費の道を開いた。二代目貴右氏は長商・明大・大相撲で活躍後、家業を継ぎ信州煙火工業㈱に改職し、社団法人日本煙火協会理事を長く務めた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

藤原章さんも大正5年頃は線香花火を製造していたのではないか。打上玉は氏子が作る時代。

藤原煙火店 創業は大正期であり、当時は奉納煙火の製造のみであった。初代社長の頃は、善光寺前の土産店の経営が本業であり、煙火作りはその傍らに無償で行うものであった。2代目社長は、戦前に東京の両国で力士を目指していたが、第二次世界大戦で満州から引き揚げた後に家業を継いだ。時を同じくして、隅田川の煙火大会が戦後の復興によって復活が計画されていたが、東京都内には煙火師は残っておらず、打ち上げる煙火師として依頼が届いた。隅田川煙火大会での打ち上げは経営拡大の契機となった。戦後から現在にかけて、自治体や商工会を中心とした大規模な煙火大会が次々に開催された。主催者は腕のある煙火師に依頼をする中、隅田川煙火大会で活躍する藤原煙火店は多くの依頼を受けた。基本的に営業圏の拡大は、他業者のいない地域に対して行っている。地域の秋祭りは重要な収入源となっており、収益の半分近くを占めている。また、近隣住民との信頼関係も重要であり、工場が立地する地区の秋祭りでは、奉納煙火を無償で提供するなど、関係を良好に保つ取り組みを行っている。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1916年 大正5年 青木儀作

青木儀作氏 花火工場を作る。長野市大字小柴見生 紅屋煙火店初代 昭和3年に八重芯を完成。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

青木儀作氏 長野市の地主の末っ子で会社勤めをしていたが脱サラで煙火師を始めた。その頃の打ち上げ花火は作る物で、買う物ではない時代。売れたのは線香花火だけだった。打ち上げ花火のライバルが多い長野市の問屋に販売すれば買いたたかれると考えた儀作氏は一念発起。東京まで独自のルートを開拓し販路を広げた。昭和に入った頃は流浪の花火職人が各地を巡って地域の煙火師の指導をしていた。無理して安い花火は作らなかった。大正時代以降の大会に出した花火の製法が書かれた秘伝書は今でも大切に残されている。戦時中は火薬が戦争に回されたため花火が作れず、1970年頃は手持ち花火に人気が集まるなどの逆風も吹いた。 日経新聞

青木煙火 創業は大正5年であり、当時農家の末子だった初代社長が煙火を好み、製造許可を得たのが始まりである。当時は多くの職人が煙火を製造しており、青木煙火のある安茂里地域でも、秋祭りには4集落合同で煙火が打上げられていた。当時から長野市一帯では、山手の集落を中心に秋祭りの奉納煙火が積極的におこなわれていた。大正期には煙火のコンクールが盛んに開催され、入賞することで評判や売値も上がることから、積極的に参加していた。第二次世界大戦以前は奉納煙火が中心であり、これと同時に線香花火の製造が重要な収入源であった。また、打上煙火の販売も市域程度の範囲で行われていたが、専業として行う人はいなかった。イベントとしての煙火が増加したのは戦後の事であり、その後は企業として本格的に成立するようになった。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1916年 大正5年 鈴木元義

鈴木元義氏 長野市大字平柴生 花屋鈴木煙火店主 青木儀作氏と同年代に活躍し、割物を得意とした。工場を妻科町八幡川沿いに設け岩石町西宮神社東側に住まわれ、明治堅気の人で五寸玉菊先二度変化は賞賛されたと言われている。瓜割煙火会では昭和41年まで指導を受けた人である。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1916年 大正5年 鷲沢平六

鷲沢平六氏 大正4年より長野恵比寿講に協力し大正5年より指揮を執る。長野恵比寿講に西沢長蔵氏に二尺玉を初めて製造させ打ち揚げに成功する。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1916年 大正5年 西沢長蔵

西沢長蔵氏 長野市大字西長野生(現新諏訪町) 三尺玉に挑戦。長野恵比寿講に二尺玉を初めて製造。打ち揚げる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

西沢長蔵氏 新諏訪町より当西長野地区に居を移し、その頃から両親や妻の反対をも押し切って、3尺玉に情熱を燃やし、日夜研究に研究を重ね、単身大阪へ行き、大阪の造船所で鉄製の筒を作ってもらい、いよいよ3尺玉の打上となった。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1916年 大正5年 2尺玉用木筒

新潟県から大欅を求め、長野市で初めて2尺玉用木筒を造り、打上げる。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

1916年 大正5年 日本最初の産業用火薬メーカー

日本化薬 日本最初の産業用火薬メーカー、日本火薬製造株式会社が発足。 日本化薬ホームページ

1916年 大正5年 小串鉱山

小串鉱山の歴史 その昔、村人あるいは碓氷の関所を通れない旅人が上州側の干俣から信州川の牧部落へ毛無峠を通って往復していたころ、この付近に火のつく石があると言い伝えられていたという。大正5年、大日本硫黄株式会社が高井鉱山と称して採掘精錬を行った。翌年、社名を東洋硫黄株式会社と変更、月産精製硫黄200トンに達したが、大正12年には鉱量が乏しくなったので峠を越えて上州側の鉱床を採掘することになった。これが小串鉱山である。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1917年 大正6年春 恵比寿講

恵比寿講 二尺筒用の大欅を新潟で切り出し、信越線新井駅から汽車で長野へ運ぶ。 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

1917年 大正6年 鷲沢平六

鷲沢平六氏 長野恵比寿講用に新井市産の欅製二尺筒を作成。新調の木筒を初めて使用し、二尺玉3発を打ち上げる。同年に二尺五寸玉の打上計画をし警察部保安係の許可を求めたが危険を恐れて許可されなかった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1917年 大正6年11月20日 二尺玉用木筒

二尺玉用木筒 大正6年11月20日の長野えびす講より大正9年まで使用し、現在は長野市立博物館に展示をされています。

1917年 大正6年 茨城笠間稲荷主催全国花火競技会

茨城笠間稲荷主催全国花火競技会開催。煙火は各府県の所轄(警察)となる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1917年 大正6年 煙火は各府県の所轄

煙火は各府県の所轄(警察)となる。7月、火薬類取扱・作業主任者制公布。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1917年 大正6年11月20日 恵比寿講

各地の祭りで共通の催し物には、神楽・神輿・山車・灯籠・舞踊・太鼓などの奉納があった。大名行列などの仮装行列も大きな祭りでは行われた。また、祭りにちなんで花火が打ち上げられ、奉納相撲なども企画され、奉納劇を演じるところもあって、祭りは民衆に楽しみをあたえる待望の日であった。花火は技術が進んで大型化してきたが、大正6年11月の長野市の恵比寿講では、日本一と銘打った二尺玉を打上げるほどになった。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第八巻 近代二,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

1917年 大正6年頃 飯縄煙火

飯縄煙火 本格的に始まったのは大正6年頃、責任者鈴木元義氏(花屋鈴木煙火店主)、古沢重忠、小林明、柄沢武雄、広田茂、柄沢平三により煙火が始まり、昭和の現在へと引き継がれてきた。戦時中は一時中止されたが戦後間もなく復活し技術も年々研究され代々受け継がれて今日に至る。 「参考文献 : 茂菅区誌,茂菅区誌編纂委員会,茂菅区誌編纂委員会出版,1978年11月3日」

1918年前後 大正7年前後 加茂煙火

加茂煙火 煙火を奉納した有志の集合写真が現存。 「参考文献 : 加茂神社拝殿屋根改修工事記念誌,加茂神社屋根改修工事建設委員会,加茂神社屋根改修工事建設委員会出版,2020年12月」

1918年 大正7年 藤原貴右

藤原貴右氏 問御所で生まれる。信州煙火工業二代目。

1918年 大正7年 隅田川

両国橋中心に上下流とも、300間内への船の出入りや、浜町ならびに本所側へ桟敷を設けることが禁止される。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1918年過ぎ 大正7年過ぎ 信州煙火

信州煙火 安茂里に新工場を建設。

1919年 大正8年 藤原善九郎

藤原善九郎氏 二尺玉製造中に爆発事故。長男が巻き込まれ数人の犠牲者が出た。間もなく花火の製造をやめる。その名声を聞き新潟方面や伊那、諏訪からも教えを請けに来たという事が安茂里史に書かれており、地元煙火の草分け的存在で、花火の製造と改良に努めた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1919〜1926年 大正中期〜末期 曲物

大正中期から末期にかけては“曲物”が現れ打揚煙火の粋を充分に誇ったものである。曲物と云うのは菊を出すのにはじめ緑の葉だけを玉が昇る間にだし、上に至って本玉が割れて菊が彩光すると云った類のもので本玉に矢をつけ、その矢に小さな玉をとりつけ、本玉が昇っていく間に導火の加減でこの玉が割れて、緑の彩光を現すようにされたものである。また、この矢に小玉をつけずに、矢はあるが小玉を本玉の囲りにつけたものがあり、これが“昇り✕段”と云われるものである。これは昇りきるまでに小玉も本玉も全部開いてしまうものである。また矢をつけずに他の玉を背負わしたものがあり、本玉は菊とか、柳などで負玉は管で1本に5つ位の色星が入れられており、丁度菊と乱玉を組み合わせたものとか、重ね玉と云われて、本玉を二つ重ね、その一つに吊りを仕込むなどのあらゆる工夫をこらしたものが次々と打ち揚げられていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,118項」

曲物としては“昇り電光”“昇り小菊”“昇り小花”“木葉付”“昇り乱玉”などが見られた。
昇り電光 昇りながら電光雷音を発するもの
昇り小菊 昇りながら小さい菊を出すもの
昇り小花 昇りながら星物が開くもの
昇り木葉付 昇りながら引火と葉の色火を出すもの
昇り乱玉 昇りながら乱玉を出すもの
小割模様(百花園) 大玉の星が開いたのちたくさんの小割が一斉に開くもの
「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,119項」

1920年 大正中期 彩煙火剤 彩煙剤

明治中頃からその先駆者達によって使用され始めていたアルミニウム・マグネシウムなどが1920年、大正中期頃よりは玉の彩光剤として大いに一般化されてゆき、次いでバリウム・ストロンチウムなども盛んに使用されはじめ、昼物煙火ではアマライドグリン・群青・オーラミン・ナフタリンなどが、彩煙剤として使用されるようになったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,97項」

1920年 大正9年 芯物花火

この頃より芯物花火が人気を呼ぶ。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1920年 大正9年 米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 大正9年には鉱山集落ほとんど全焼という火災を起こし閉業の状態になっていた。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1921年 大正10年9月 鷲沢平六

鷲沢平六氏 大正4年より長野恵比寿講に協力し大正5年より指揮を執る。鋼製二尺筒「春雷筒」を作成し東郷平八郎伯の命名にかかわる。氏が先頭に立ち東京芝浦での東宮帰朝奉祝煙火を成功させる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1921年 大正10年9月 東郷平八郎 春雷筒

東郷平八郎命名の「春雷筒」を初めて使用して5発打ち上げる 長さ:3.18m、直径:85cm、重さ:3.19t 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

春雷筒 信州煙火同好会を組織して鋼鉄製の二尺玉筒を製作。長さ十尺五寸、直径二尺八寸(外径?)、重量八百五十貫(3t) 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

1921年 大正10年9月3日 御帰朝奉祝煙火

東宮殿下(昭和天皇)の御帰朝奉祝煙火打ち上げの為に、長野より24名の煙火師が東京芝浦で煙火打ち上げ 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

皇太子殿下(昭和天皇)欧州御視察の帰朝を祝い、長野市の煙火師24名が東京芝浦埋立地で2尺玉5発など200発の煙火打上げる。2尺玉用筒は、特別鋳造の鋼鉄製で東郷平八郎が「春雷筒」と命名。長野市の花火が一躍世界一とはやされる。 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

東京芝浦沖で春雷筒使用。2尺5玉打ち揚げ。長野県の業者が皇太子訪欧からの帰国を祝して花火打ち揚げ。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1921年 大正10年9月3日 瀬沼煙火興業(現在、小千谷煙火興業)

小千谷煙火興業を含む新潟と長野の10社程度の煙火店が協力して、昭和天皇が皇太子時代の英国留学から帰国時に台場で花火をあげる。「2023.11.26 小千谷煙火興業 瀬沼輝明氏」

1921年 大正10年11月 恵比寿講

恵比寿講煙火大会は東宮殿下御帰朝奉祝煙火の写しと称して、芝浦で打ち上げたものと同一のものを打ち上げ 例年よりも規模も大きく未曾有の壮観であった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1921年 大正10年 木筒 鉄筒

従来、打揚煙火の木筒は、その保存に非常な困難があり、人によっては海岸、または川原の砂の中に埋めてその乾燥をふせぎ、使用の度ごとにほり出して使うなど、いろいろの方法がとられていた。が、ついに鉄製の筒が考案され、その製造に成功したのである。また、この鉄製の成功は20号玉(2尺玉)の製造と成功をうながし、またしても、国中に三河煙火の名を高しめたのである。ときに、大正10年のことであった。その後、この鉄製の筒はたいして改良もされないまま、現在にまで続いているのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,97項」

1921年 大正10年 静岡県三島

静岡県三島花火競技会開催。同藤枝でも開催。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1921年頃 大正10年前後 妻科神社の森花火

妻科神社の森花火 大正10年前後が一番盛んだったと言われ、村の青年達が寄り集まって花火を作り、取り付けていたが、次第に規制が厳しくなり、今では、殆ど煙火師がやるようになった。 「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育 巻77 号8 p.30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

1923年 大正12年2月 加茂煙火

加茂煙火 「加茂煙火 大正12年2月」と書かれた盃が現存。加茂神社境内の石碑の年号と照らし合わせると、加茂煙火会発足のお祝いの盃と推測される。その後、歴代会長に盃を贈る習わしとなっている。

1923年 大正12年9月1日 藤原善九郎

藤原善九郎氏 長野市大字平柴生 明治から大正にかけて煙火の先駆者。他界。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1923年 大正12年11月3日 飯山えびす講

飯山えびす講 飯山えびす講と同時開催で煙火競技大会を開催。煙火師は鈴木、坂本、小林、篠原、藤原、丸山。えびす講の販促活動の後、購買客への感謝の意を込めて煙火を揚げていた。しかし、その時期は気温が低く雪が降る可能性が高いという事から、住民が帰ってくるお盆の時期の開催へ変更となり、納涼煙火として8月14日へ移行した。納涼煙火へ転換した時期についての正確な資料は残っていないが、1977年まではえびす講で煙火を打ち揚げている。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1923年 大正12年11月 恵比寿講煙火大会

恵比寿講煙火大会で飛び入りの煙火師(上田市)が木筒の破損で死亡 鷲沢平六氏の厳選により技術未熟なものは参加できない事となる 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 二度目の事故。筒開きをしたので逃げる暇なく、火焔を浴びて大火傷を負い死亡。 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

1923年 大正12年頃 瓜割煙火

瓜割煙火 玉はせいぜい5号くらいまでで、20発くらいでした。お蔵の中で毎晩摺鉢で火薬を摺っていた。西沢長蔵さんがいたので色々と教えてもらった。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1923年 大正12年 線香花火製造業

線香花火製造業 北上五三郎、東京から長野市に来住、長野特産の技術向上する。(全世界の90%を生産) 「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

長野市近隣は線香花火の生産が盛んだった。北上さんをはじめ、小出さん等が作っていた。近隣の人に技術指導をして、内職で線香花火を作ってもらっていた。

1923年 大正12年 長野市平林

長野市平林の若者連の花火 大正12年以降中断 昭和6年復活 昭和11年からは専門業者(鈴木元義氏)に依頼 「永代記録」に記載あり 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1923年 大正12年 米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 大正12年、鉱山の再開に着手しようとした船越栄蔵の採掘願いに対して、鉱毒水による害を恐れた近隣村長7人の不許可陳情書が出るが、この頃になると人絹やスフなどを製する時に使用する硫酸をとるために硫黄が必要とされ、国内の化学工業の活況と共に本邦重要鉱山として採掘が続く。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1924年 大正13年 瓜割煙火

瓜割煙火 郷路山大綱火の始まり。郷路山の山頂まで上がることに成功した。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

瓜割煙火 大綱火の綱元をお宮の西側から夕陽が丘の団地の中に移す 大綱火成功。煙舎小屋東側の桃畑で5号玉まで打ち上げ。お蔵(社務所)の中で製造していたが、お蔵が汚れるので煙舎小屋を作った。西沢長蔵さんの所で製造した火薬を持って調合して詰めた。西沢長蔵さんに色々と教えてもらった。他の町では、加茂、飯縄、妻科、上松、安茂里が盛んだった。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1924年 大正13年 花火組合

この頃、各地で花火組合結成。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1925年 大正14年 恵比寿講

恵比寿講の番付に藤原商店 煙火師 藤原章 の記載あり。 「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

1925年 大正14年 神都奉納全国競技会

伊勢で神都奉納全国競技会開催。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1925年 大正14年10月 土浦花火競技会

土浦花火競技会日本仏教護国団主催で開催。9・10日の2日間開催。当時は昼夜2日間実施するのが通例だった。神龍寺という寺に雑魚寝したという。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1926年 大正15年9月 中川繁治

恵比寿講に参加記録のある長岡市中川繁治氏が、長岡市で正三尺玉二発の内一発を成功している。新潟県では明治24年、大正13年の三尺玉打ち揚げは二尺五寸であったと言われている。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1926年 大正15年 花火製造メーカー

この頃、花火製造メーカー671軒、うち玩具専門76軒。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1926年 大正末期 昇り麦笛 3尺玉

大正末期には現在に見られる煙火の殆どが出揃っていたのである。その後は現在に至るまで殆どが大きな変化もなく“昇り麦笛”とか“3尺玉”の打ち揚げに成功した程度しか見られず、当時よりいかに打上煙火が発達していたかを物語っているのである。昇り麦笛と云うのは、紙筒にピクリン酸カリウム、および硝石、または没食子酸と塩素酸カリの混合物を詰めたもので、これらの燃焼ガスが筒から噴き出るとき、ヒューと麦笛のような規則正しく音をだすものである。これにより従来の音物のようにその豪快な音のみでなく、非常に爽快味が加えられたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,120項」

1926年 昭和元年 加藤喜平

長之助の弟に加藤喜平(明治29年生)がいた。喜平も長之助に劣らず、その技にはなみなみならぬ手腕を誇っていた。当時、いまだ煙火界にとっては手薄であった蒲郡市に進出し、三河南部海岸地帯一円の打揚煙火の名手として、たちまちのうちに近隣にその名を高め、1926年(昭和元年)に加藤煙火を創業し、蒲郡市の夏の風物史としてその粋を誇る蒲郡観光祭の煙火こそは、まさしく彼、喜平の所産にほかならぬのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,97項」

1926年 昭和初年頃 がん具煙火

紙管の発展は単に大量生産のみでなく、がん具煙火の種類の増加と云うことにおいても、その発展史上実に大いなる意義があったのである。また吹き出しも、従来のように単に筒の上部から火を吹き出すと云うだけでなく、焰の色が途中で2色、3色に変化するように、火薬の充填法を考案したようなものも出始めてきた。また、撚りものとしては、ロービにアルミニウム剤を混用した玉スダレ等も出現した。アルミニウムを使用した関係上火力も強く、従って勢いよく光輝ある火花を散らす男性的な玉スダレ等も大いに人気を博したようである。この明治、大正期の草分け時代を通過して、いよいよ昭和の御代になるにしたがい、がん具煙火の一大発展期、すなわち、黄金時代に一歩足を踏み入れるのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,107項」

1926年(昭和初年)の頃には、その製造もいよいよ一般化されはじめ、次に述べるような実に多彩な煙火が製造され、一般民衆を楽しませたのである。ロービ、玉スダレを大型化し、竹ヒゴを柄に取り付けた朝顔、銀光乱がつくられた。朝顔はその形が朝顔に似ているところから名付けられ、点火された場合、2色または3色に変化するように火薬を撚り込まれたもの等も現れはじめた。筒を利用したものとしては、板の上に三ヶ所位ネズミ煙火を取り付け、その板の中心を釘等で固定し、点火した場合、この板が回転する車火と呼ばれた煙火の変化したサキソンが製造された。この車火は、仕掛煙火で盛んに使用されたものをそのまま小型にしたもので、この板上に三羽烏、天狗の絵等がはってあり、とかろによっては三眉尺とか烏とか呼ばれたものである。サキソンは筒の中央を固定したもので、車火と同様に左右へ回転するのである。また大正末期頃から、よく使用されていた爆竹の変形したと考えられる引玉、また煙幕弾に、更に工夫をこらした2B弾が昭和4年5年頃には考案され愛用されたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,107〜108項」

1926年頃 昭和初期 成瀬煙火

成瀬煙火はその後、昭和初期に事故が多発し、製造禁止処分を受け、のち、新たに東海煙火合名会社を設立しなければならなかった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,98項」

1912年~1945年 大正期から第二次大戦 発光剤

明治時代に基礎的な化学薬品が輸入されたのに続いて、次々と花火の内容を豊かにする新しい薬品が導入され、花火師の研究は一段と飛躍した。発光剤としてはマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が花火に取り入れられるようになった。この金属粉の導入によって燃焼温度は3千度にまで上昇した。この時点ですでに日本の花火はヨーロッパ系の花火の燃焼温度を追い越していた。つまり、日本の花火の色彩の方がヨーロッパ系の花火の色彩より、はるかにくっきりと浮き上がる様になっていたのである。現在の高度に進歩した花火の基礎は、この時代にすでに完成していた。発煙についても主要な彩色発煙が軍の研究により完成していた。こうした方法は現在の花火の薬剤配合方法と大差ないといっていい。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1912年~1926年 大正時代 瓜割煙火

瓜割煙火 大正時代になり名実共に充実した煙火会となり、会員からは、戦前まで大玉の研究に情熱を燃やした通称「西長」こと西沢長蔵翁が生まれている。西沢煙火店として専門花火師となり、全国初の三尺玉を成し遂げており、かなり瓜割の煙火好きに関係していると思う。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

瓜割煙火 瓜割煙火会が結成 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1912年~1926年 大正時代 妻科神社

妻科神社 杜花火 明治時代の余勢が続く 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1912年~1926年 大正時代 西沢長蔵

西沢長蔵氏 西長野へ居を移し三尺玉に情熱を燃やした

1912年~1926年 大正~昭和 名人花火師

大正から昭和にかけては、花火作りに没頭して花火史上に名を残すような名人花火師が、全国各地で続出した時期でもあった。この時期の名人花火師と言われた人たちは、他の花火師には絶対に造り出せない強烈な印象を花火に盛り込むことに努力した。日本の花火が現在でも個人技だと言われているのはここに理由がある。それだけにこの時代は今では考えられないくらい、全国各地で花火の競技会が開かれた。腕に覚えのある花火師たちが、精魂込めて造った花火を持ち寄って技を競った。名人クラスの花火師になると、いくら興奮していても自分の得意とする花火の秘密は絶対に喋らなかったものである。誰も教えてくれない秘密主義の世界が花火師の世界である。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1927年 昭和2年 青木煙火

青木煙火 青木儀作氏 八重芯菊先型花火を完成させる 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1927年 昭和2年 福島県飯塚温泉競技会

福島県飯塚温泉競技会開催。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1927年 昭和2年8月14日 西沢長蔵

西沢長蔵氏 第一回野尻湖。3尺玉1発。地盤が軟弱な為、地面にめり込み失敗に終わった。筒も大破し、再び大阪の造船所で作らせた。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

西沢長蔵氏 野尻湖で最初の三尺玉打ち上げ 地盤軟弱の為、筒がめり込み失敗 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

西沢長蔵氏 長野市大字西長野生(現新諏訪町) 三尺玉に挑戦。上水内郡信濃野尻村野尻湖(現信濃町)で三尺玉の打上をしたが地盤軟弱でめり込み失敗する。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1928年 昭和3年4月 加茂煙火

加茂煙火会 加茂神社境内に加茂煙火會創立5周年の石碑あり。 「参考資料 : 加茂神社境内」

1928年 昭和3年11月20日 西沢長蔵

松本市にて西沢長蔵氏初の三尺玉三発打ち上げに成功する。御大典奉祝煙火と銘打って恵比寿講に松本市の松本連隊射撃場に於いて正三尺玉「引先紅緑咲分千輪菊」他二発打上に成功した。全国でも正味三尺玉の打上は初めての事である。前年の経験から大筒を芝浦製作所へ厚目の材質にと依頼し18日朝松本駅に到着し20日が初使いで重量7.5t長さ5.3mである。西沢氏は新興の松本市・小布施町と長野恵比寿講が重なる等、生産力と打ち子の動員力等から当時としての限界でその上に高価な大筒製作費の償却も考慮し、大玉打上可能な松本市・小布施町での消費を選んで長野恵比寿講からは手を引いたと推測される。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1928年 昭和3年11月20日 鷲沢平六

鷲沢平六氏 大正4年より長野恵比寿講に協力し大正5年より指揮を執る。長野恵比寿講煙火大会創立満30周年記念の大煙火を催す。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1928年 昭和3年 恵比寿講

恵比寿講煙火大会創立満30周年 二尺玉7発を揚げる 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1928年 昭和3年 青木儀作

青木煙火 青木儀作氏 八重芯菊先型花火を完成させる 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

八重芯花火を青木儀作氏が創作。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1928年 昭和3年 長野市柳原中俣神社

長野市柳原中俣神社 豊野町周辺の奉額百余面に花火を詠んだ句が残っている  「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1928年 昭和3年 アルミ爆

この頃、アルミ爆が開発される。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1928年 昭和3年 花火の研究

西沢勇志智氏「花火の研究」出版。上下2巻、約600頁の大著。本文7章からなり、付録として古来の各流派の秘伝書、西洋花火の諸薬法、取締法規などを網羅している労作。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1928年 昭和3年頃 紙管の製造

また、明治から大正末期までのがん具煙火の筒は、葦の管や竹の筒などが利用されていた。その非生産性にかんがみ、いろいろ研究のすえ、紙管の製造に、成功した。1928年(昭和3年)頃のことである。これにより、がん具煙火の大量生産とその進歩は急速に進み、がん具煙火の今日あるのは、この紙管の製造によって押し進められたものであると言っても決して過言ではあるまい。当時、岡崎市柱町に保田安太郎、安城市御幸町に稲垣実、稲垣義雄らがいた。彼等はこの紙管製造に専心していたのである。その後、戦争になって三河がん具煙火紙管組合が結成され、がん具煙火の発展に寄与しているのである。現在、その組合長は安城市の笠原喬夫でその発展につとめている。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,101項」

1929年 昭和4年11月20日 上田市の恵比寿講

上田市の恵比寿講に長野市藤原煙火店が三尺玉二発を打ち上げており、盛んに大玉への挑戦があった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1929年 昭和4年12月 鷲沢平六

鷲沢平六氏 病重く、春雷筒、二尺玉と尺玉の木筒、その他全部を長野商工懇話会に寄付 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1929年 昭和4年 小串鉱山

小串鉱山の歴史 昭和4年、北海道硫黄株式会社の経営に移る。昭和11年には生産量2万トンを越えた。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1929年頃 昭和4年〜5年頃 2B弾 ロケット

2B弾と云うのは、当時関東地方で使用されていた煙幕弾を安城の稲垣徳雄が研究し、これに鶏冠石を導入して音を加えたものである。また音ものの変形としては、爆竜と云われ連続音を発するモノなどが人気を博した。すなわち、長方形の台紙の長い一辺に、たてに一列火薬をおき、これにもう一枚の紙をもってのりづけした後円筒をつくり、これを押しつぶして帯状とし、これを更に山型に折り続けたもので、これに点火された場合、その折り目ごとに音が切断され、バリバリと云った連続音を発するのである。さて興味のあるがん具煙火としては、空中高く上昇するものも作られたりした。当時流星と云われたもので、現在ではロケットである。2グラム以下の火薬を詰めた筒が長い竹ヒゴに取りつけられ、点火すると噴出口より勢いよくはきだされる火薬の力で、空をめがけて上昇するものである。この火薬には、一般に黒色火薬が使用されていたが、次第に煙幕剤を入れて煙を出しながら進行するもの、または、最後に音をだすように工夫されたものなども製造されるようになったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,108〜109項」

1930年 昭和5年1月2日 西沢長蔵

西沢長蔵氏 第二回高土堤。3尺玉2発成功。明治堅気の頑固一徹者の長蔵爺は、十数年かけて3尺玉に挑戦し、念願の日本初3尺玉を成し遂げたのである。花火界への功績大と言えよう。爺の自宅の屋根の下屋に「元祖三尺玉」と書かれた看板が上がっていたことを懐かしく思い出す。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

西沢長蔵氏 長野市大字西長野生まれ(現新諏訪町) 長野の高土堤で三尺玉2発の打ち上げ成功。 西沢長蔵氏は三尺玉に挑戦し、新潟県長岡市等で揚げる以前に日本初の三尺玉を成し遂げた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1930年 昭和5年6月 東京警視庁

東京警視庁 塩剥と硫黄の配合を禁止。違反品を取扱った山梨の行商隊が警察署に留置されたという伝聞あり。三河の業者は「塩剥非使用」のシールを用いた。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1930年 昭和5年8月10日 西沢長蔵

西沢長蔵氏 第三回松本。3尺玉2発成功。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1930年 昭和5年10月25日 2尺昇り3段

昭和時代になるにあたり、三河煙火はその打揚技術に、またしても、一大革命をむかえたのである。1930年(昭和5年)10月25日、岡崎市岩津町天神山で、「2尺昇り3段」すなわち、絶対不可能と言われていた芸術的打揚煙火に成功したのである。碧海郡吉浜の人々であった。以来、煙火の打ち揚げは従来の1発ずつ打ち揚げる方法から、「空中5段がえし」「昇り3段」「下り3段」などの、高級な技術を必要とするものに変化していったのである。或いは、あらかじめ赤熱した鉄板を筒の中に入れておき、下部に打揚薬を充填した玉を投入し、その玉を打ち揚げてのち、即座に次の玉を投入し続けて、その度毎に打ち揚げ薬が点火されて玉を空中に送りだす「早打」または、連続的に玉の打ち揚がる「追い打ち」などが発達していったのである。それも次第に豪快さが増し、10号玉(尺玉)40発連続早打ち、または、30号玉の同時打ち揚げと言った、言語を絶する打揚技術へと発展していったのである。ところが、これ等の人々のことごとくが故人となり、殆どその後継者がいなくなってしまったことは、三河煙火にとって、全く、残念なことだと言わざるを得ない。そこには、勿論、世界第2次大戦と言う黒い影が大きく左右していたことは、論を用しないところであろう。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,98〜99項」

1931年 昭和6年11月20日 西沢長蔵

西沢長蔵氏 第四回北海道。3尺玉2発成功。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1932年 昭和7年8月25日26日 西沢長蔵

西沢長蔵氏 第五回高崎。3尺玉2発成功。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1932年 昭和7年 恵比寿講

八重芯菊が打上げられており、速射が早打ちの名称に変わり、藤原章が考案したと言われるスターマイン(大スターマイン・空中花壇五彩のオンパレード)が登場している。二尺玉(小林勘司、青木儀作、鈴木元義、藤原章)が四回にわたり打上げられており、午後六時三十分より三十分ごとに時間指定の打上が組まれて、午後十一時近くまで続けられた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 「技術の青木」に対し「販売の藤原」と言われ、藤原章さんは戦前、昭和7年にいち早くスターマインをえびす講で打上げている。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

1933年 昭和8年 稲垣欣弥 中木九一

1933年(昭和8年)舎弟三郎に煙火製造を伝承し、以来、硝石製造に専心したのである。その技術は高く他を圧し、稲金化学の名は三河一円の煙火製造業者の間に、流布していったのである。その間にも、煙火の研究だけはおこたらず、「紅緑金魚煙火」の製造に成功し、これを戦争後、中木九一に伝授したのである。中木九一は豊橋市の滝崎煙火及び稲金煙火にてその技をならい、岡崎市柱町に大同煙火を設立し、現在八十余才、製造業者の最長老として活躍している。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,101項」

1933年 昭和8年 煙火工業組合

東西「煙火工業組合」を結成。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1934年 昭和9年 西沢長蔵

西沢長蔵氏 三尺玉 小布施村の松川端地籍の松林(今の栗ヶ丘団地の北の開墾畑)で揚げた。試験的に打ち揚げる場所を探し、野尻湖、長野市、上田市、松本市など候補地をあげて交渉したが料金が高かったり危険であったりしてなかなか話が成立しなかった。午前10時の1発目、成績はまあまあで上がり方が足りなかった。正午12時の2発目、装填に2時間かかったが開かずに松川原の真ん中に落ちて爆発。実に壮観であったが、深い穴が開いた。午後3時の3発目、一番よく上がったが丸くなくイビツだった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1934年頃 昭和9年・10年頃 瓜割煙火

瓜割煙火 長持ちを担いで個人宅へ乗り込んで、板塀を壊したというので警察沙汰になって呼ばれてしまい、花火関係の書類は全部焼却しちゃったです。その事も分町の理由になった一つだと思います。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1935年 昭和10年8月24日 西沢長蔵

西沢長蔵氏 第六回戸隠。3尺玉2発成功。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1935年頃 昭和10年頃 金魚煙火

1935年(昭和10年)頃には、がん具煙火の金魚煙火も出現しはじめた。長さ5・6センチメートルの筒の先端に麦殻を入れ、綿屑でこれをとめて軽く水上に浮くようにし、その後部に火薬を充填し最後部はつぶして魚の尾ヒレのようにしたもので、この後部から火をつけ、水上を走り廻らせたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,109項」

1936年 昭和11年7月 小勝郷右

小勝郷右氏 満州国(現在の中国東北地方)で市制記念花火大会で打ち上げ。尺玉50発、その他約2千発。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1936年 昭和11年 瓜割煙火

瓜割煙火 戦争により中断 戦前は西沢花火店に調合してもらった 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1936年 昭和11年 両国川開き

両国川開きに100万人の人出。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1937年以前 戦前 全国を行脚

滋賀の廣岡幸太郎、長野の田村仁三郎、愛知の外山愛次郎の三人が全国を行脚して、各地の煙火師に技術を教えた御三家といわれる。戦後は滋賀の外山常三郎、岐阜の北島実もそれに準じた布教師役であった。当時の競技会で上位入賞者でもあった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1937年以前 戦前 青木煙火

青木煙火 戦前に差出から小柴見に引っ越した

1937年以前 戦前 木曽福島

戦前 木曽福島の新開(しんかい)で藤原組と書いてある二尺筒で二尺玉を打上。列車と牛車で運んだ。

1937年 昭和12年 長野商工祭

写真 昭和12年(1837)に開催された「長野商工祭」を記録した写真の中の1枚です。解説には、「奉納商工煙火に従事した煙火師と巨弾春雷筒新調前に使用したる二尺と尺の木筒。右より鈴木元義、青木儀作、藤原章。長野には往昔より煙火の打ち揚げ行はれ、大正3年頃より更に進歩発達し、大正5年11月20日二尺玉打上げに成功す、後二尺打上鋼鉄製春雷筒を鋳造、長野市恵比寿講大煙火としてその名は内外に拳ぐ」とあり、高さ5mはあろうかという巨大な二尺玉打ち上げ木製筒を背景に、二尺玉を囲んで長野を代表する3人の名煙火師が肩を並べています。 「参考文献 : 長野市民新聞連載 「写真は語る 長野市公文書館資料」6,2尺玉で名をはせる  ‐晩秋の夜空を彩るえびす講 名煙火師‐ ,松島 耕二 著,長野市民新聞,2014年7月19日12頁」

1937年 昭和12年 小串鉱山

小串鉱山の歴史 昭和12年、大規模な地滑りによって各種施設も全滅したが復興した。同年には満州事変。14年にはドイツが第二次世界大戦に突入。16年に日本も太平洋戦争に入り、硫黄の主なる消費先である化学工業は徐々に衰え始める。終戦後は昭和25年に朝鮮動乱の特需もあり、昭和31年には23000トンを産出するが、石油精製過程から産み出される安価な回収硫黄が輸入されるようになり昭和46年に閉山となる。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1937年 昭和12年10月10日 西沢長蔵

西沢長蔵氏 第七回小布施。3尺玉2発成功。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

西沢長蔵氏 小布施町で三尺玉の打ち上げ成功 通算6回成功している 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

西沢長蔵氏 長野市大字西長野生(現新諏訪町) 三尺玉に挑戦。上高井郡小布施町の三尺玉打上まで計6回成功したが、戦中の統制と筒の協出で戦後復活ならず。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1937年 昭和12年10月 支那事変

支那事変勃発 全国的に煙火が禁止 昭和12年から昭和23年頃まで 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1937年 昭和12年 長野飛行場

長野飛行場工事始まる。7月、日中戦争開戦。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1937年~ 昭和12年~昭和20年 日中戦争

戦争はどんどん激化の様相を見せて、花火師は出征兵士を送り出す花火を打ち上げ、戦死者の遺骨を出迎える花火も打ち上げていた。慰霊祭や戦勝祈願の花火などをほとんど連日のように打ち上げられていた。こうした中でも最も豪華に打ち上げられていたのが、春と秋に行われる靖国神社の例大祭の花火だった。花火以外では防空演習で欠かせなかった発煙筒や焼夷筒(筒口からヒューヒューと火の粉を吹き出し、焼夷弾が落ちたと想定するには最適な花火だった)の製造で、花火師は作っても作っても間に合わないといったありさまだった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1938年 昭和13年10月 日中戦争開戦後

日中戦争開戦後から、政府による物品の統制が始まる。松本警察署は、恵比寿講や年末・年始の大売り出しを控えた管内の商店に対し、時局がら宣伝・広告の自粛を指示している。花火は例年の半分か三分の一とする、福引景品は10円以下の物とする、チンドン屋の行列は五人以下、ポスター・ビラは二色刷り以下にするなどであった。 「参考文献 : 長野県史 通史編 第九巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1990年」

1938年 昭和13年 石川孫一郎

「昇り3段」の打ち揚げに成功した数年前、碧海郡桜井町に石川孫一郎(明治28年生)と言う青年がいた。1923年(大正12年)孫一郎は成瀬晋吉に煙火を習いはじめた。安城では、晋吉の義弟、加藤徳雄が関東地方から伝わってきた煙幕弾を改良して、これに音薬を導入した通称2B弾を創り出し、程なく他界した。1935年(昭和10年)、孫一郎はこの加藤煙火の後見としてこれを援助し、ますます、2B弾の研究を重ねていった。孫一郎は2B弾の発展に意をそそぎ、1938年(昭和13年)「高射砲」と言う名で、一発もののがん具煙火を作り出し、日支事変の影響を受けて、衰微の一途をたどらんとしていた三河がん具煙火に活をいれるなど、未だ、がん具煙火の黎明期につくした功績は、実に、大きなものがあった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,99項」

1938年 昭和13年 川開き大花火

川開き大花火 昭和13年からは戦火が拡大したため中止となり、昭和20年の終戦を経て23年の復活花火大会まで行われることがなかった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1938年 昭和13年 妻科神社

妻科神社 日中戦争激化で中断 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1939年 昭和14年5月 春雷

大相撲 春雷貴右(藤原貴右)初土俵。学生相撲で輝いた逸材。春雷の四股名は、父の章さんが命名。 「参考文献 : 信州の相撲人,京須利敏,信濃毎日新聞社,2017年5月18日」

春雷 明大相撲部から1939年夏場所(武隈部屋)、同じ明大の盛島(武隈部屋)、早大柔道部の山口(出羽海部屋)とともに幕下付け出しで初土俵。後にプロレスラーとして力道山と対戦したこともある山口はスタート2連敗で休場し、そのまま引退。盛島は1勝6敗の惨敗だった。1人春雷だけが4勝3敗と勝ち越した。幕下14枚目まで昇進したが42年に入隊し、終戦で復員したものの年齢的にも再び大相撲の土俵に上がることはかなわなかった。本場所出場はわずか5場所。忌まわしい大戦がなかったら「天下のお関取」として活躍しただろう逸材だった。 「参考文献 : 信州の相撲人,京須利敏,信濃毎日新聞社,2017年5月18日」

1939年 昭和14年 長野飛行場

長野飛行場開設。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1939年 昭和14年 物資・価格統制

物資・価格統制始まる。日支事変の進展と共に、全ての物資が不足したため、各種の統制が始まった。組合の結成も、個人では支給されないので煙火の必要物資を組合として受けるようになった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1940年 昭和15年 全国煙火製造連合会

製造業者間もしだいに一体となって、その発達をたすけ、昭和初期には東部煙火工業組合および西部煙火工業組合が設立され、1940年(昭和15年)になりこの両組合は統合して全国煙火製造連合会をつくり、380名の会員から組織されるようになった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,65項」

1940年 昭和15年 小勝郷右

小勝郷右氏 約5年間海軍へ。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1940年 昭和15年 両国川開き中止

戦争のために両国川開き中止。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

両国川開き この年より昭和22年まで戦争の為川開き中止。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1941年 昭和16年 煙火全面禁止

日支事変から更に世界第二次大戦の(太平洋戦争)ぼっ発にともない、1941年(昭和16年)には国策にそって全面禁止の状況においこまれ、日本国民一丸となって戦争にまい進しなければならなくなり、例えば江戸両国の川開きの煙火も昭和15年より、昭和23年の大戦終了後までは、廃止を余儀なくされたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

1941年 昭和16年5月 春雷貴右

藤原貴右 大相撲 春雷貴右 入隊 「参考文献 : 信州の相撲人,京須利敏,信濃毎日新聞社,2017年5月18日」

1941年 昭和16年12月 太平洋戦争 第二次世界大戦

太平洋戦争始まる。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

第二次世界大戦始まる。日支事変の当初は出征者を送る出征花火が揚げられたが、やがていっさい打ち揚げはなくなる。一部の業者は発煙筒、信号筒など軍需品や船舶用の始発筒を製造することになる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1941年 昭和16年 戦局急変

第二次世界大戦の戦局急変と共に、両国の川開きの花火を含む全ての花火が中止 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1941年 昭和16年12月 物品税

物品税始まる。20%。戦時特別税として物品税が煙火にも課税された。贅沢品につけることを趣旨とした。戦後も続き、玩具煙火は早々に撤廃したが、打ち揚げ煙火は25年間継続した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1941年 昭和16年12月 清内路

清内路では、天明・天保の大飢饉でも休まなかったと伝えられ、戦中・戦後も筒役(神前・三国)を奉納し続けている。 「参考文献 : 南信州の煙火 火の芸術に魅せられた男たち(「綿五」原家コレクションを中心として),飯田市美術博物館 編,飯田市美術博物館出版,2014年7月

1941年 昭和16年12月 飯縄煙火

飯縄煙火 戦時中は一時中断 「参考文献 : 茂菅区誌,茂菅区誌編纂委員会,茂菅区誌編纂委員会出版,1978年11月3日」

1942年 昭和17年10月 日本煙火工業組合

日本煙火工業組合に統合。物品税20%→60%。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1944年 昭和19年 流星

大戦中、三河煙火史上の痛快な事件としては、軍部の依頼を受けて、太田続吉が、すでに過去のものとして遠くわすれ去られていた矢、すなわち、流星を工夫製造したことである。続吉のこのロケットは斜に発射され、2粁(㎞)の射程を飛んだのである。そのうちに終戦となり、ロケットはついに実用されなかったが、軍部では南の島々の間の連絡用に使用する計画であったと言うことである。いよいよ戦争も破局をむかえんとしていた1944年(昭和19年)頃のことであった。また、戦争中、煙火製造を禁止された一般製造者達は、軍命令により、手榴弾・軍用火薬・銃弾などの製造にもっぱら追いまくられていたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,100〜101項」

1945年 昭和20年 空襲

長野、篠ノ井、松代、空襲を受ける。8月終戦。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1945年 昭和20年 藤原貴右

藤原貴右氏 終戦で復員したが身体がボロボロで、再び土俵に上がることは叶わず。家業を継いで藤原煙火二代目となる。

1945年 昭和20年8月25日 がん具煙火

1945年8月25日、日本の敗戦によって終局をむかえ第二次世界大戦後、講和条約が発効し、火薬使用の許可がおりると、再び、三河の煙火製造業者はいち早く焦土の中から立ち上がり、日本一を目指して活動を再開したのである。時を同じくして、今まで戦争中、一切の娯楽から遠ざけられていた子供達から、一度にドット洪水のようにがん具煙火が要求されて来たのである。ところが当時、がん具煙火は贅沢品とみなされ、政府からは非常に高率の物品税がかけられたため、製造業者の利益は全く低率の極みを呈していたのである。岡崎市竹内栄太郎・稲垣三郎・太田佐太郎の三氏はこの危機をすくうために、代議士千賀康治を通じて政府に税金軽減の猛運動を起こし、それに成功したのである。この成功により、国中の製造業者は勿論のこと、三河製造業者に与えられた恩恵は大きく、これを契機として三河がん具煙火の発達は目覚ましく、現在にまで、その功績は延々としてつづいているのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,101〜102項」

1945年 昭和20年9月17日 飯田長姫神社

飯田長姫神社花火打上。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1945年 昭和20年9月26日 安茂里村平柴

安茂里村平柴のお祭りに数十発を揚げる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

長野市平柴の諏訪神社祭礼で5号20玉の打上を実施。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1945年 昭和20年10月10日 火薬類の製造禁止

マッカーサー命令で火薬類の製造禁止となる。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

火薬製造禁止 マッカーサー司令部 火薬製造禁止 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1945年以降 昭和20年以降 戦後の三河煙火

1942年(昭和17年)、三河打揚煙火の名人、加藤長之助が他界した。その後、戦後の打ち揚げ界に於いて名人と言われたのが岡崎市伊賀町、磯谷釘作である。岡崎天満天神の煙火に活躍した鑅三郎の弟である。戦後、三河の復興は急速なテンポで都市化が進められ、交通規制・安全規制がしかれはじめた。これらの規制は、しだいに厳しくなり、その徹底化がさけばれ、煙火の打ち揚げに困難や支障をきたすようになってきたのてある。この時代風潮に流されつつある現状は、三河打揚煙火の将来に、一抹の不安を感じる。打揚煙火製造業者はがん具煙火への転換をよぎなくされ、1969年(昭和44年)現在、その殆どの製造業者が、がん具煙火の製造にも従事しているのが現状である。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,103項」

1945年頃 昭和20年頃 がん具煙火

約1937年(昭和12年)頃から1945年(昭和20年)頃までの戦争中は、戦争時代にふさわしく紙鉄砲、煙幕砲、高射砲、大砲などと云われたものが製造された。これは厚紙にそれらの形をつくり、その先に吹き出し筒などを取り付けたり、高射砲と云って足を取りつけて斜めに立て火を点じ、その中から星を一つ飛ばしたり、音を出した程度のもので、火薬の軍用化のため特に新しいものは見あたらず、むしろ衰退の状態であった。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,109〜110項」

1945年頃 昭和20年頃 がん具煙火 ピンホイール ヨーヨー

ピンホイール、ヨーヨーと云うのは、火薬を入れて撚った細長い管、すなわち、ネズミようの撚り煙火を紙の円板上に取りつけ中心のピンホイールにピンまたは釘で固定し、点火することにより回転させたものがピンホイールで、この中心に糸を通して吊ったものがヨーヨー煙火である。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,110項」

1945年頃 昭和20年頃 がん具煙火 Z弾 ファイヤークラッカー クラッカーボール

音ものとしてZ弾、ファイヤークラッカー、クラッカーボールなどがあった。Z弾と云うのは2B弾の変型で、2B弾と異なるところはこれが前後左右の不定の方向へ走り廻ることで、がん具煙火としては危険性をともなう故に、現在では製造されていないものである。クラッカーボールは俗にカンシャク玉とか五色玉と云われるもので、径1センチ以下爆薬0.2グラム以下、一般には0.05グラム程度で、投げつけて物に衝突したとき、爆発し大きな音をだすものである。ファイヤークラッカーは大小いろいろあるが爆竹とも云われるもので、小さい筒の底に石膏をつめて底止めとし、爆薬を充填し、導火をつけたものを組み合わせたもので、導火に点火した場合、その導火の短い筒から順次爆音を連続的に発するようにされたものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,110〜111項」

1945年頃 昭和20年頃 がん具煙火 ドラゴン

この頃になると単純な吹き出しでは飽き足らず、この吹き出しを変化させたドラゴンなども出はじめた。吹き出しの筒の径を大きくし長さを縮めた筒に火薬をつめ、筒孔を細めて勢いよく噴出させるものである。丁度手筒を小型にしたもので地上に据えて点火するものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,111項」

1945年頃 昭和20年頃 がん具煙火 ケーブルカー

戦後、世間もようやく静まり安定化してくるとともに、次第に洋式の風俗もとり入れられ12月ともなればクリスマスが祝われるようになり、それにともないクリスマスクラッカー、2B弾なども大量にでまわるようになってきたのである。また変わった煙火としては、ケーブルカー、へび煙火などがある。ケーブルカーと云うのはケーブルカー・電車・飛行機などの絵型に、火薬を包てんした小さい筒を取りつけ糸でつって、火薬の噴出する力で走らせるものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,112項」

1945年頃 昭和20年頃 がん具煙火 ススキ煙火 スパークル 乱玉

種々変化したがん具煙火は、現在ではこれらの他に、竹ヒゴの先に吹き出しをつけたススキ煙火、その他朝顔などの竹ヒゴ付き撚り煙火を大型化したスパークルなどが製造されている。これは練り物と云われ、火薬をのりでねって固めて使用するもので、従来のものとは一風変わったものである。すなわち竹・木・針金などの柄の先にねり火薬をつけて自然乾燥したもので、閃光・紅・緑などの焰をだすのである。また乱玉も20連発といった大きなものになり、煙幕も色のついたものとなり、白色煙および黄色煙などがつくられた。煙幕は火薬を不完全燃焼させて煙をださせるため筒口が非常にせまく作られているところが他の煙火と異なっておりおもしろい点でもある。その例を示すと、白色煙 硝酸カリ62%、硫黄35%、木炭3%。黄色煙 硝酸カリ38%、鶏冠石34%、硫黄24%、木炭4%。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,111〜112項」

1946年 昭和21年7月4日 独立祭の花火

各地で独立祭の花火を打ち揚げ。火薬は一切製造禁止であったが、アメリカ軍は独立祭の花火打ち上げを希望した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1946年 昭和21年7月4日 小勝郷右

小勝郷右氏 進駐していたアメリカ軍の打診があり、駐屯地と官舎で花火打上。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1946年 昭和21年8月 岐阜長良川

岐阜長良川 岐阜日日新聞(現岐阜新聞社)がGHQに直談判し、終戦翌年の昭和21年8月に岐阜市民の為に花火を打上。

1946年 昭和21年9月 土浦競技会

土浦競技会復活。マッカーサー司令官の命令以外の国内の花火打上は許されなかったが、長い伝統があった為か、土浦の競技会は復活し、茨城県内の業者だけで実施した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1946年 昭和21年11月 憲法発布祝賀花火

憲法発布祝賀花火開催 戦後最初の国内の大会といわれ、東京の宮城前で実施された。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1946年 昭和21年 飯縄煙火

飯縄煙火 再開。昭和21年からの煙火主任者名簿の記録あり。 「参考文献 : 茂菅区誌,茂菅区誌編纂委員会,茂菅区誌編纂委員会出版,1978年11月3日」

1946年 昭和21年 日本化薬

日本化薬 岩鼻作業所貸与許可が下り、黒色火薬と導火線の製造開始。

1947年 昭和22年5月3日 小勝郷右

小勝郷右氏 新憲法施行を記念して皇居前広場で花火打ち上げ。この新憲法施行記念花火が戦後初めて日本人のために打ち上げられた花火であった。いくら新憲法施行記念の花火だと言っても、新しく火薬を使って花火を造ることは出来ず、倉庫に戦前から仕舞い放しになっていた花火を持ってきて打ち上げる以外方法がなかった。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1947年 昭和22年 西沢長蔵

西沢長蔵氏 新諏訪町に戻る 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1947年 昭和22年 新憲法施工記念

新憲法施工記念に祝賀花火が皇居前広場で打ち上げられる。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1948年 昭和23年 煙火製造許可

大戦終了後の1948年(昭和23年)には即座に工業会推薦の業者に限り煙火製造許可を受けることに成功し、約150人の会員が再び製造を開始し、また同年数年ぶりに両国煙火組合の主催によって7月第3土曜日午後3時より両国川開きの煙火が打揚られ、敗戦にすさんだ国民の心をあたたかくつつんでいったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

1948年 昭和23年 加藤喜平

喜平は打揚煙火の名手としてのみでなく、がん具煙火にもその技倆(ぎりょう)の程を示し、1948年(昭和23年)頃には、すでに戦前に考案していたパラシュート煙火を大々的に製造するなど、三河煙火の発展に寄与するところ実に多大なものがあったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,97項」

1948年 昭和23年4月 西沢長蔵

西沢長蔵氏 他界 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

西沢長蔵氏 長野市大字西長野生(現新諏訪町) 三尺玉に挑戦。享年71才。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1948年 昭和23年8月1日 GHQより製造許可

GHQより煙火製造の許可が出る。 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

GHQより製造許可 火薬の主管は商工省となる。生産を許可されたもの(約100社)が年間黒色火薬10トンの範囲で製造が許された。玩具煙火はスパークル、すすきなど6品目に限られていた。ただし、輸出及び連合軍用は別枠であった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1948年 昭和23年8月1日 小勝郷右

小勝郷右氏 小勝氏がGHQへ通い1年がかりで説得し、江戸時代以来二百数十年の伝統を持つ両国の川開き花火を打ち上げる。両国花火組合主催、読売新聞社後援、丸玉屋小勝煙火店単独打ち上げ。3寸玉、5寸玉を主力とした約600発。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1948年 昭和23年8月9月 両国川開き

両国川開き再開 隅田川コンクール開始。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1948年 昭和23年9月18日 全国花火コンクール

両国橋から下流の浜町河岸一帯で全国花火コンクール開催。完全な個人技術の競技会で、出品の申し込みは日本煙火工業会で受け付けた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1948年 昭和23年11月20日 えびす講

えびす講煙火大会復活 柳町中学北側にて打ち上げ 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1948年 昭和23年11月21日 花火に百数十萬円

信濃毎日新聞朝刊 県下では花火に百数十萬円。世はまさに花火時代。長い間の御法度が解かれて九年ぶりに許可になったのは去る八月。そのトップを切ったのが九月に行われた東筑摩郡下の農地祭。それ以来今度のエビス講までに届出て許可されたもの八十七件の三千七百十二発。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1948年 昭和23年 両国の川開き

両国の川開きの花火復活。全国花火コンクールが両国橋から下流にて開かれる。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1949年 昭和24年 煙火製造許可

旧G・H・Qより煙火製造許可が出る これにより各地区の祭り煙火も復活する 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1949年 昭和24年 納涼諏訪湖花火大会

諏訪湖 戦後の混乱の中で市民が明るい希望を持ち一日も早く立ち直ることを願って、8月15日、諏訪湖で初めて「納涼諏訪湖花火大会」を開催。

1949年 昭和24年 瓜割煙火

瓜割煙火 華傘(瓜割の華)の原型 古くは三段傘・五段傘とあり、小さい傘から順に開いていくもの。戦後に現在のように直線に傘を並べて同時に開かせ、見物客を驚嘆させた。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

瓜割煙火 再開 火薬等も薬局より購入した事を記憶して居ます。勿論炭も自給で、氏神様の庭に穴を掘り製炭したものです。4,5年もたつと花火の方も戦前並みに復活してそれなりに観客も増え、近在では随一ではなかったのではないでしょうか。8月末頃の日曜日に茂菅の家から竹を買って、お宮の広場で釜で煮て、煙火小屋前の石碑付近に干した。9月からは裾花川近くの花火小屋で導火作り 薬研ですった。郷路山の中段の十段登りは見事だった。大綱火は届かなかった 針金は2本張った。戦後は鈴木煙火(昭和41年頃まで)、信州煙火、青木煙火に調合してもらった。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1950年 昭和25年5月 笛花火、ダリヤ星登場

火薬類取締法公布 朝鮮戦争始まる。この頃、笛花火およびマグネシウム使用(ダリヤ星)登場。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1950年 昭和25年8月8日 長野納涼煙火大会

長野納涼煙火大会が始まり、昭和31年まで裾花川河畔で開催。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1950年 昭和25年 杉浦兼次郎

この税金軽減問題のほかに、三河がん具煙火の発展を大きく左右したものに十日会の結成があった。1950年(昭和25年)に発足した十日会は煙火販売業者によって組織された会のことである。岡崎市八帖町に杉浦兼次郎と言うものがいた。兼次郎は1933年(昭和8年)には、すでに、煙火販売を始め、全国的にその販売網を設けていた。当時、兼次郎は、線香煙火・花車・筆ねずみ・長撚りもの・柄つきよりもの・ロービ・玉すだれ・乱玉(3・5・7連発)などの多種類の煙火の宣伝と販売をもって活躍していたのである。昭和25年、通産省通達として、「流星・5色玉・1発打ち上げ」などのがん具煙火禁止問題が持ち上がったのである。兼次郎はそれに対処するため、三河販売業者の結集を呼びかけ、この禁止問題の解消に狂奔したのである。結果、十日会の結集を築きあげ、他方、この禁止問題の解消に成功したのである。ここに於いて、近代三河がん具煙火発展の基礎が確立されたのである。その後、またまた、2B弾禁止問題が起こり、これに対しても十日会のメンバーに協力し努力を重ね、兼次郎こそは相つぐ煙火発売禁止に対する解放運動の闘志家であり、煙火発展史上にその不滅の名を連ねているのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,102項」

1950年 昭和25年 火薬類取締法

危険度が高い薬品が配合それはじめ、事故の多発の傾向が強くあらわれはじめたため、1950年(昭和25年)には煙火も一般火薬類と同じ法規によって全国的に取締る“火薬類取締法”が制定される。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

1950年 昭和25年 火薬類取締法 各種の化学薬品が使用され大衆化されるに従って、許可制度も厳しさをまし、新たに施行された火薬類取締法により、民間製造が完全に禁止されたため、多くの有名な煙火家達の姿はしだいにその数を消していったのである。奥殿の熊野流煙火の2代目として盛大さを競っていた加藤市太郎も、ついに、その技倆(ぎりょう)を顕すことが出来なくなり衰微の一路をたどり、現在ではもうその名を知る人さえもなくなってしまったことは、全く残念なことだと言わざるを得ない。また、袋物でも、碧海郡安城の福釜の人形、西加茂郡上野山の鶏一番、或いは、腹から風をすって青空に大きく躍ってその有名をうたわれた岡崎市日名町の鯉など、今は遠く過去の煙火として消え去り、煙火家古老の間にさえ知る人も少なくなってしまったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,97〜98項」

1950年 昭和25年 加茂煙火神輿

加茂煙火神輿 町内有志が手作りにて奉納したもの。 「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

1951年 昭和26年1月 玩具煙火

玩具煙火の物品税廃止 玩具花火は子供用のもので贅沢品ではないという主張を愛知県の業者が、出身代議士に嘆願した結果、免税となった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1951年 昭和26年7月 花火打上団派遣

戦後初めてシアトル万博に花火打上団派遣。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1951年 昭和26年 瓜割煙火

瓜割煙火 桐の木で炭焼き。妻科にある鈴木煙火店作業場で火薬作り。反古紙で導火線の台紙貼り。煙火会の写真あり。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1951年 昭和26年 妻科神社

妻科神社 杜花火再開 花火製造は全面的に花火会社に任せるようになった 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1952年 昭和27年 植村煙火

安城では1952年(昭和27年)、植村煙火ががん具煙火の製造をはじめた。1961年(昭和36年)、植村林は愛知県煙火組合長の任にばってきされ、以来、1969年現在まで、いまだにその任を果たし、実に延々9年間、ただひたすらに三河煙火の発展に全力をつくしているのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,103項」

1952年頃 昭和27年頃 瓜割煙火

瓜割煙火 鈴木煙火店の指導で作業が行われていた。日曜日は境内で導火線作りと、鈴木煙火店で詰め物作業。夜は煙火小屋で詰め物。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1953年 昭和28年2月 発音煙火

東京府中で発音煙火作業中事故。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1953年 昭和28年 近藤金松

1953年、岡崎では、市の「観光夏まつり」に於いて30号玉(3尺玉)の打ち揚げに成功し、戦後の打揚煙火界に新風が吹き込まれてきた。挙母市(豊田市)の近藤金松の打ち揚げた大玉は、重量194キロ、鉄製の長さ約4mと言う巨大な筒から揚げられ、暗黒の夜空に火花を散らして三度の変化を見せ、開花時間28秒と言う長時間にわたり、三河煙火の伝統を遺憾なく発揮した。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,103項」

1953年 昭和28年 海外市場調査会

JETRO(海外市場調査会)が海外宣伝に花火を利用。輸出振興の見本市などを海外で実施するときに花火打上を行い好評を博した。約50ヶ所でこの行事が続けられた。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1953年 昭和28年 施行規則改正

施行規則改正 打上消費を規制 占領下で花火打上の所管が確定されていなかったものを明確にし、適用除外である玩具煙火の範囲を明文化した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1953年頃 昭和28年頃 米子硫黄鉱山

米子硫黄鉱山の歴史 外国貿易の中で輸入される硫黄が廉価な事、奥信濃の山峡で搬出に費用がかかったことなど生産コストが引き合わなくなり、昭和28年頃から小規模生産にかわり、昭和35年秋に閉山となった。 「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

1954年 昭和29年7月 輸出振興コンクール

京王多摩川(調布)輸出振興コンクール花火開催。通産大臣賞が出る。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1954年 昭和29年 大阪富田林

大阪富田林でPL花火芸術始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

PL花火芸術開始 「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

1954年 昭和29年 京都小御所火災焼失

京都小御所火災焼失 京都御所内の檜皮葺の小御所が焼失したが、原因は当日打ち揚げられた花火=吊物花火が屋根に落ちたためとされた。それ以来京都市内の花火打上は極端に制限されるとともに、吊物花火の打上を自粛する方向が定着した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1955年 昭和30年1月 玩具問屋

東京本所で玩具問屋爆発。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1955年 昭和30年 飯田市高森町

飯田市高森町 吉田神社 木筒現存 昭和30年まで木筒を使用して花火を打上。堀内煙火店の堀内会長が昭和30年の打上げに従事している。現在は綺麗に防腐剤等を塗って区民会館のロビーに展示して大切に保管されている。

1955年 昭和30代まで 大町市八坂

大町市八坂上篭 大姥神社 木筒3本現存 大姥神社の大祭は毎年5月3日に行われている。大姥さまは、賑やかなことが大変好きだったと言われている。このため上籠(あげろう)の氏子は、春の例大祭前夜に必ず花火を打ち上げている。昭和30年代までは、祭りが近づくと氏子たちは花火小屋にこもり、花火作りに精を出し、その花火の出来具合を競い合ったものだ、と古老は言う。花火は、ケヤキや赤松の胴をくりぬき、胴の周りをびっしりと隙間なく竹の箍で締め付けた手作りの筒を、大姥神社本宮の鳥居近くに立て、三寸玉・五寸玉の手作り花火をつぎつぎと打ち上げ、子供たちの健やかな成長と五穀豊穣・無病息災・家内安全・大願成就などを祈った。昔使った打ち上げ花火の大筒が、今でも大姥神社境内に置かれている。 「参考資料 : 大姥山トレッキングマップ」

上篭には集落から離れた尾根の上に花火小屋があり、そこで花火を作っていた。出来上がった花火は境内で打ち上げた。

1955年 昭和30年頃 瓜割煙火

瓜割煙火 花火は戦前並みに復活 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1956年 昭和31年4月 瓜割煙火

瓜割煙火 諏訪神社正遷宮祭 権堂で木遣の指導を受けて、権堂木遣を今に残す。瓜割煙火の木遣が誕生。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1956年 昭和31年7月 物品税

3号以下信号用花火物品税非課税。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1957年 昭和32年4月 市制60周年

市制60周年記念煙火(柳町、白岩外と城山公園) 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1957年 昭和32年8月 祇園祭煙火

祇園祭煙火大会開催。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1957年 昭和32年 稲荷山治田神社

更埴市稲荷山治田神社 更埴地方の農業は米麦、養蚕により生活が成り立っていたので九月頃は稲の取り入れまではしばらく農閑期になり、明治10年代から続く奉納花火が町の若衆の労働奉仕によって成り立ってきた。しかし、昭和30年代ともなると日本経済はだんだん農業経営も厳しくなり、果樹栽培や兼業農家が増え、時間的な余裕は全く無くなってしまい、昭和32年を最後に治田神社奉納仕掛煙火は終止符を打ってしまった。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1958年 昭和33年2月 宝塚劇場

東京宝塚劇場火災事故 以来劇場内での煙火使用禁止される。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1958年 昭和33年8月 長野夏祭り

長野夏祭りの一環として煙火が行われる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1958年 昭和33年10月 青木儀作

青木儀作氏 黄綬褒章受章(芯物完成の功) 科学技術庁の推薦によって、業界最初の受賞者となった。世界一綺麗な八重芯が今日あるのも青木氏の創意である。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1958年 昭和33年11月20日 えびす講煙火大会

えびす講煙火大会 打ち上げ場所を旭山中腹に移る 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1959年 昭和34年4月29日 青木儀作

青木儀作氏 黄綬褒章を受賞。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1959年 昭和34年5月29日 長野県飯田地区

飯田の花火工場爆発事故により全国的に煙火製造の規制が強化され、当地方の農山村で少なからず続いてきた煙火の手作りが、この時を契機として途絶えている。 「参考文献 : 南信州の煙火 火の芸術に魅せられた男たち(「綿五」原家コレクションを中心として),飯田市美術博物館 編,飯田市美術博物館出版,2014年7月」

長野県飯田地区で事故 この頃煙火ばかりでなく、産業火薬の大事故が頻発したが、煙火爆発事故で、学童を死亡させたことは大反響を呼び、法律大改正を余儀なくし、玩具煙火が法の適用範囲となった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1959年 昭和34年10月 土浦大会

土浦大会で「速射連発の部」はじまる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1959年 昭和34年12月11日 第二京浜国道

第二京浜国道で、火薬運搬中爆発。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1959年 昭和34年 両国川開き

両国川開き 住宅密集化等から危険防止のため、5号玉禁止に。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1960年 昭和35年2月 火薬類取締法

火薬類取締法大改正 玩具煙火が規制される。従来は府県条例。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1960年 昭和35年4月 防爆壁

防爆壁等防護施設に補助金供与 国および都道府県から補助金が出て防爆壁が設けられた。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1960年 昭和35年4月23日 埼玉県岩槻

埼玉県岩槻で事故 官民一体となって保安体制を整備しつつある段階で、新しい規制では不充分であると認識させるような、玩具工場の爆発が発生して大混乱を招いた。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1960年 昭和35年5月7日 横須賀

横須賀で火薬庫に放火。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1960年 昭和35年8月 火薬類取締法 改正

陸上交通規則および、都市規制の影響を受け、またまた改正をせまられ、その結果、がん具煙火も一般煙火同様に火薬類取締法の適用を受けることとなる。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

がん具煙火の規制と同時に、製造所の保安施設強化のために多額の国家補助金が全国の各製造所に支給され、一方製造業者自身の保安に対する自覚も生まれ、これにともない、製造法および製品にも、一段の安全性と進歩が見られ、再び安全煙火としての全盛時代がおとずれて来たのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

1960年頃 昭和35年頃 過塩素酸カリウム

過塩素酸カリウムの使用開始

1961年 昭和36年1月 日本煙火芸術協会

日本煙火芸術協会発足 煙火を文化財指定の対象とするために、青木氏の受賞を契機に煙火の技術向上を目的に結成した団体。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1961年 昭和36年1月 輸入始まる

この頃中国からの輸入始まる。戦後初めて中国から爆竹が輸入された。当時爆竹は市場になく、35年の規則改正の折は玩具煙火として爆竹の名は無かった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1961年 昭和36年5月 増田孝一

孫一郎とほぼ年を同じくして、成瀬煙火の杉浦小一にその手解きをうけていた1人の若者がいた。1923年(大正12年)頃のことであった。22才のこの若者は、名前を増田孝一(明治36年生)と言った。彼は、その後、吉浜煙火のもとに行って、当時、一躍衆目を集めていた昇り3段を学んだ。孝一はさらに加藤徳雄についてその技を習得し、ようやく発展のきざしを見せはじめたがん具煙火に着目し、石川孫一郎らと共に、2B弾を研究製造したのである。当時、2B弾の音薬は鶏冠石が使用されていたため、事故が多発していた。孝一は研究の結果、音薬にアルミ剤を使用することに成功し、「安全2B弾」の改良製造をなしとげたのである。時に、1961年(昭和36年)5月のことであった。この間約20年の長い研究期間を要したのは、1937年7月7日、北京郊外の一発の銃声によって引き起こされた日支事変に端を発し、1941年12月8日未明、ハワイ攻撃に始められた第二次世界大戦の約10年間が、大きく影響したためであった。大戦中、煙火は禁止され、火薬は戦争用に徴発されていったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,99〜100項」

1961年 昭和36年7月 両国川開き

この年を最後に両国の花火中止 高度経済成長と工業化の進展による隅田川の汚染と、割物2.5寸まで、ポカ物4寸までの規制を受け中止された。全国の花火大会も縮小したり中止したりするところも出て、一時花火師を嘆かせた。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

両国川開き中止 隅田川が汚染して悪臭を発し、交通渋滞もままならぬなどの悪条件に加えて、従来5号玉まで打ち上げられていた花火が4号玉までしか許されないなどのため230年の歴史を閉じる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1961年 昭和36年7月 清水武夫

清水武夫博士「花火」出版 その後1976年に「花火の話」も出版され、花火のバイブルとして独・米で翻訳されている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1961年 昭和36年10月 土浦大会

土浦大会に通産大臣賞供与。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1961年 昭和36年 全国輸出振興煙火競技大会

調布市(東京都)の京王多摩川で、昭和29年より「全国輸出振興煙火競技大会」が通産大臣賞の争奪をかけ昼夜に分けて盛大に催されていたのが、両国の全国花火コンクールと共に中止された。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

この時期に注目すべき点は、花火の内容が多様化し複雑化するなど技術的にも大きな発展を示したことと併行して、安全性をより重視するようになったことである。打上の場所を選択することもさることながら、現代の花火の基本的な考え方が、この時期に確立されたといっていい。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

1961年 昭和36年 手力雄神社

徳川時代からの伝統のある岐阜市長森の手力雄神社の花火(手筒他)県重要文化財に指定。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1962年 昭和37年1月24日 社団法人日本煙火協会

全国の煙火製造業者および販売業者を会員とした社団法人日本煙火協会が設立された。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

社団法人日本煙火協会発足 煙火の安全保安を保ち、事故などによる第三者災害に見舞金を供与する団体として社団法人を結成。同協会が第三者災害に対し見舞金供与制を実施。当初賠償保険に加入することが検討されたが、損保会社の同意が得られず、自主的に見舞金を供与することになった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1962年 昭和37年9月 危害予防規定

危害予防規定規範制定。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1962年 昭和37年 瓜割煙火

瓜割煙火 花屋鈴木煙火店(昭和41年まで)、藤原煙火店への煙火代金支払い記録あり。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1962年 昭和37年 両国川開き

川幅と人家との関係上、廃止せざるを得なくなり、1962年(昭和37年)からは全面停止となり、これにかわって、以前より東京郊外の、玉川の煙火大会がその脚光を浴び、夜空に輝かしい五彩の花を散らしたのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

両国川開き 交通事情悪化の為廃止。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1963年 昭和38年8月 大曲

大曲大会に通産大臣賞供与。「創造花火の部」開始する。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1963年 昭和38年 チタン合金

この頃からチタン合金の利用始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1964年 昭和39年3月 輸出振興玩具展示会

輸出振興玩具展示会開催。南海煙火の「人工衛星」の通産大臣賞はじめ品種別8種類の表彰を行った。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1964年 昭和39年4月 輸出貢献企業認定制

輸出貢献企業認定制施行 外貨獲得は60年代の国策だったので、輸出を奨励して貢献企業を表彰した。特に貢献度の高い企業対象に、総理大臣表彰があったが、業界から3社が選ばれた。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1964年 昭和39年11月 施行規則

映画・演劇用効果花火が法の規制を受ける 施行規則第49条無許可消費数量に特殊効果が加わった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1964年 昭和39年 メートル法の改正

煙火も現代化が進められ、1964年(昭和39年)メートル法の改正にともない、古来からの尺・寸は使用を禁止されたので、この時から、呼方も1寸を1号とした。例えば、5寸玉 5号玉、1尺玉 10号玉、1尺5寸玉 15号玉、3尺玉 30号玉「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,103項」

1964年 昭和39年 型物復活

型物復活(アトミックサイン) 八重芯花火など調和美を追求した割物の完成に対比して、型をくずした割を求める方向から型物が流行する。変化星が出現しない、明治末期にも変型を求めて○に+などの型物が流行した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1964年 昭和39年 日本化薬

日本化薬㈱が速火線・親導・ランスなどを製造販売 長年各メーカーがそれぞれ自家製をしていた親導を始め、速火線などを日本化薬が製造販売する。手作業でなく、規格化することにより、玉の均一化が実現した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1965年 昭和40年6月 塩剥・鶏冠石

通産省軽工業局長名で塩剥・鶏冠石の使用禁止の通達を出す。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1965年 昭和40年10月 規則改定

規則改定で2Bにマッチヘッドを付ける事が禁止された。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1965年 昭和40年 玩具煙火

玩具煙火メーカーが台湾に初めて工場開設 人手不足、賃金対策などに対応した海外進出の先駆者は奈良県の葛城煙火であった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1965年 昭和40年 青木儀作

青木儀作氏 長野市小柴見生 他界。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1966年 昭和41年4月 物品税免除

物品税免除 25年ぶりに物品税から解放された。品物を作った段階で税が付くという物品税は消費税より重圧があった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1966年 昭和41年11月20日 えびす講

えびす講煙火大会 打ち上げ場所を丹波島下流域に移る。宅地化が急速に進み郊外へ移転の始まりとなる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1966年 昭和41年 がん具煙火

年毎に人家も密集し、あちらこちらにはアパート、マンションが出現し、子供達の遊び場所が日毎にせばめられてゆきつつある現代社会において、1966年(昭和41年)には2B弾が禁止され、その改造をよぎなくされNAクラッカーとして新発足するなど、がん具煙火の安全性もそれだけ要求され、且また子供達の夢とあこがれが、ひとしお切実に望まれるようになって、がん具煙火もいよいよ一大改革を迎えなければならない。そこで、三河の煙火製造業者にかけられた責任と重要性は、なみなみならぬものがあるのではないかと思われ今後新時代に対し如何に進むべきか、なお一層の努力と健闘が望まれている。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,112〜113項」

1966年頃 昭和41年頃 瓜割煙火

和田健三氏の会長時代(26才~33才の8年間)に鈴木煙火店廃業。鈴木煙火店廃業翌年に信州煙火の藤原貴右社長が和田さん宅を訪ねてきて信州煙火との取引拡大。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1967年 昭和42年5月 打上従事者手帳

打上従事者手帳制実施 打上から事故を無くすために、業界で自主的に定めた制度。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1967年 昭和42年8月1日 煙火の日

前にも述べたように、安全規制の徹底化は打揚煙火にのみとどまらず、しだいに、がん具煙火にもよりその安全性が要求されはじめ、こういった状勢にかんがみ、1967年(昭和42年)、全国「煙火の日」が日本煙火協会によって定められたのである。毎年8月1日がその日であり、この日にはテレビ・ラジオ・新聞などの報道機関を利用して、夏の夜をたのしむ子供たちのために、正しく、安全に、煙火をあげることを指導することになった。今後、ほどなく21世紀をむかえるにあたり、新時代の要求に応じて、この三河煙火がどのような姿で発展しつづけていくであろうか。大いに、興味深く、また、重要なことでもある。と同時に、今後三河煙火製造業者のより一層の努力と、愛知県特殊産業としての煙火の発展のための団結とが、大いに望まれるのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,103〜104項」

「花火の日」制定 玩具煙火の安全消費運動を開始。戦後花火製造解禁になった日、東京本所で玩具煙火問屋の大事故のあった日、日本一のPL花火などの開催日、などを理由に8月1日を選ぶ。当初は全国工場所在地で正午に一斉に花火打上実施。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1967年 昭和42年 東海煙火

この動乱の始まった昭和12年、成瀬晋吉は病に倒れ、香村鈴信がそれを継いだのである。鈴信は成瀬煙火を東海火工と改め、終戦と同時に東海煙火を改名設立した。然しながら、現在では保安距離その他の法規的制約のため製造不能となり、1967年(昭和42年)には休業状態のやむなきに至ってしまったことは残念であると言わざるを得ない。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,100項」

1967年 昭和42年 鈴木元義

鈴木元義氏 長野市大字平柴生 花屋鈴木煙火店主 青木儀作氏と同年代に活躍し、割物を得意とした。他界。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1967年 昭和42年8月 飯綱火祭り

飯綱火祭り 始まる 夜の部に煙火を使った演出をする。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1967年 昭和42年 えびす講

えびす講煙火大会 打ち上げ場所を雲上殿横の台地を中心にバードラインにかけて移る 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1968年 昭和43年 煙火生産額

全国煙火生産額は約25億円(煙火協会調べ)、がん具煙火はその内約19億円、打揚その他は約6億円、輸出は約4割、輸出先は北米を主として、中南米、欧州などにおよんでいる。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,66項」

1968年 昭和43年 輸入玩具

中国からの輸入玩具漸増 1億円に到達。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1969年 昭和44年 阿知波栄司

十日会はその後、三河煙火卸業組合として発展をつづけた。1912年創業、1954年阿知波煙火店を設立した、阿知波栄司(岡崎市板屋町)が1969年組合長に就任しており、今なお、がん具煙火の安全性と健全娯楽として正しい消費の宣伝を、テレビ・ラジオを通じておこなっており、三河煙火は再び、戦前の黄金時代に優るほどの発展を歩み始めるに至ったのである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,102〜103項」

1969年 昭和44年 三河煙火史

次第に人家が密集し、最近特にその安全性が叫ばれ消費場所の保安距離の確保が困難となりつつあることは、まったく残念なことと云わざるを得ない。今後、火薬によらず圧搾空気体で空中高く打ち揚げ、玉は開発後なにものも地上に落下せずに、燃え尽きてしまうなどの安全性、また従来の煙火のような対象的図形にとどまらず南極に輝くオーロラのような不調和な形の中に存在する調和の美、そうしてその色彩も混色にとどまらず、ナイアガラの瀑布にその神秘を秘めて、永遠に光の続けている虹のように、単色を各断段層に同時に重ねた美しさ、更に宇宙から地球をながめて思わず口にした「地球は青かった」の名言にしたがって、この地球を天空高く描き出すことができるならばと、夢物語を考えながら新しい時代の煙火の発展を願うものである。「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年,120〜121項」

1969年 昭和44年10月 塩素酸加里

塩剥脱皮の爆発実験実施 危険性の高い塩素酸加里を危険性の低い過塩素酸加里に置き換えるための実験は、埼玉県熊谷の実験を皮切りに10回重ねられ、有志が研究結果の配合比を公開して結論を生んだ。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1969年 昭和44年 飯縄煙火

飯縄煙火 保存会結成。昭和30年代に入ると県外の就職が増加し村内に常住する者が激減し、煙火に参加する者の数も少なくなった。先輩達が産み、育て、伝えてきた技術、伝統古典美を只単に語り草で終わらせてよいものかと考えた若者達が全村民に問い掛け、昭和44年に飯縄煙火保存会を結成し規約を設け諸事情の許す限り続ける事になった。 「参考文献 : 茂菅区誌,茂菅区誌編纂委員会,茂菅区誌編纂委員会出版,1978年11月3日」

1971年 昭和46年1月 日本輸入玩具煙火協会

日本輸入玩具煙火協会発足。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1972年 昭和47年 えびす講

えびす講 雲上殿で打上げていたが西側の林に飛び火して消防車が出動。当時、二尺玉を上げるとバードラインが振動で崩れるという話もあって、翌年から犀川の丹波島橋上流に移った。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

1973年 昭和48年 えびす講

えびす講煙火大会 打ち上げ場所を丹波島上流地域に移す。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1975年 昭和50年7月 全火協保安手帳制

全火協保安手帳制を実施 昭和46年全国火薬類保安協会は結成され、保安手帳制は50年から煙火協会と雁行するように、火薬業界は手帳制を強化していった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1976年 昭和51年 安全消費啓蒙運動

8月1日の「花火の日」の呼称をやめ「安全消費啓蒙運動」とする ”花火は危険である”という啓蒙は他の業種に類がなくPL保険対策の先取りであった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1977年 昭和52年2月 玩具煙火検査所

玩具煙火検査所竣工(東京府中) PL保険制(生産者の賠償責任)に対応して、品質向上を自主的に確立する自衛手段だった。小勝会長の工場敷地内に建設された。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1977年 昭和52年 脱塩素酸カリウム

青木多門氏、山口竹一氏が中心となり脱塩素酸カリウムが叫ばれる 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1978年 昭和53年7月29日 隅田川花火大会

隅田川花火大会復活 第一会場丸玉屋小勝煙火店、第二会場細谷火工が担当。17年振りで隅田川に花火大会が帰ってきたのである。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

昭和53年より再開された隅田川花火大会復活が始まると各地の花火大会も息を吹き返したように再び盛大になってきた。中でも伝統を守り花火コンクールを継続している所は、伊勢市、土浦市、大曲市である。 「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

隅田川花火大会 隅田川花火復活 美濃部東京都知事の発声で、1都4区の共催により水がきれいになった隅田川の花火大会が復活した。この影響でマスコミの花火の取り上げ方も大声になり、全国的に花火大会も増え拡大した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

隅田川花火大会 両国川開き 隅田川花火大会として再開。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1979年 昭和54年6月 大曲花火訪独引越大会

大曲花火訪独引越大会 佐藤勲氏引率でボンの庭園博で花火打上。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1979年 昭和54年 善光寺

善光寺大本願火災。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1980年 昭和55年11月 日本煙火協会

日本煙火協会が保安技術のための講習会を開始。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1981年 昭和56年 製造施設賠償責任保険

製造施設賠償責任保険に加入 第三者に対する賠償体制確立。昭和35年頃は事故が多発していたので、社団法人設立時は保険会社は花火を敬遠した。20年経って花火の事故も減り、損保会社も理解するようになり、製造、運搬、消費の全段階で保険で補償されることになる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1981年 昭和56年 瓜割煙火

瓜割煙火 シ・ン・ス・ワの文字花火打ち上げ 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1982年 昭和57年 両国川開き

両国川開き 花火コンクール復活。両国の川開きゆかりの8社。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1983年 昭和58年9月 諏訪花火サミット

諏訪花火サミット開催 若い二世の創作花火のコンクールという形式が始まる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1983年 昭和58年 両国川開き

両国川開き 250周年記念大会。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1984年 昭和59年8月8日 停滞量

通産省告示で超大玉製造工室の停滞量120kgから80kgに減量。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1985年 昭和60年9月10日 新潟片貝

新潟片貝で4尺玉を打ち上げる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1985年 昭和60年 花火輸出

アメリカ独立200年に当たり打ち上げ花火輸出高11億7000万円の最高となる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1985年 昭和60年 瓜割煙火

瓜割煙火 地附山地滑り発生の為、境内のみ奉納 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1986年 昭和61年11月 社団法人日本煙火協会

11月、社団法人日本煙火協会に青年部発足 青木会長の発議で、次代をになう後継者の団結をはかる為に組織された。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

カナダ・バンクーバーのEXPO’86で花火4回打上。昭和54年から毎年日本煙火協会はバンクーバー・シーフェスティバルに花火打上を実施していたが、万国博開催に当たり、開会式、英国皇太子夫妻歓迎など4回の行事に花火を供覧した。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1986年 昭和61年 瓜割煙火

瓜割煙火 150周年記念誌発刊。 「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

1986年 昭和61年 両国川開き

両国川開き 28年ぶりに5号玉復活。コンクール10社に。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1987年 昭和62年3月16日 静岡県

静岡県下の日干場で事故発生。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1987年 昭和62年8月 玩具煙火検査所

玩具煙火検査所を豊橋に移転 都市化の影響を受け東京から移転。毎年自転車振興会からの助成金を得、検査機器類は充実している。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1988年 昭和63年10月 九州八代花火競技会

九州八代花火競技会始まる 旧来競技大会が開催された地方では、花火技術が急速に進歩すると言われている。本格的競技大会は多大の影響を九州にもたらしている。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1988年 昭和63年 えびす講

えびす講煙火大会 天皇の病気により夜の部は中止 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1989年 平成元年8月2日 横浜

横浜で台船打上げ中に暴発。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1990年 平成2年6月28日 愛知県

愛知県豊橋で工場事故発生。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1990年 平成2年11月 えびす講

えびす講 丹波島橋上流で打上げていた時代、二尺玉が上空20mくらいで開く。消防署が消火に走る。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

1991年 平成3年 えびす講

えびす講煙火大会 打ち上げ場所を丹波島下流犀川緑地公園に移る 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

恵比寿講 戦後の経済復興と共に進んだ市街地近郊の宅地化に伴い、恵比寿講煙火大会の打ち上げ場所は転々とすることとなった。1991年には2尺玉の打上を自粛したが、それに代わり、翌年の1992年から、全国から煙火師を招いての「全国新作花火大会」を併催することとなった。 「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125-141,坂本優紀 竹下和希 小林愛,2017年」

1991年 平成3年 両国川開き

両国川開き 花火コンクール10周年。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

1992年 平成4年6月16日 茨城県

茨城県守谷町で事故 従来隣接の家屋などを破壊したという工場事故は少なくなかったが、火災で焼失家屋を多く出した事故は無かった。滝ランスという燃焼時間の長い煙火を四散させた結果だった。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1992年 平成4年8月 大曲

大曲で新作花火コレクション開催。内閣総理大臣賞が与えられる。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1993年 平成5年2月 日本煙火協会

社団法人日本煙火協会が「30年史」を発行。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1993年 平成5年8月8日 長野市

長野市 ニコニコお祝い花火始まる。平成12年で終わる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1994年 平成6年9月 川中島古戦場

川中島古戦場フェスティバルが生まれる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1995年 平成7年1月20日 犀川神社

犀川神社 「長野市指定有形文化財等の基準」の第五に該当するとして、名称も「犀川神社の杜花火」と統一され、選択無形民俗文化財に指定された。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1995年 平成7年11月23日 えびす講

えびす講煙火大会 平日は交通渋滞が起きる為、開催日を祝日に変更する。5年ぶりに20号玉打ち上げが復活する。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1996年 平成8年 輸出

輸出(打上+玩具)2億円を下回り、輸入は35億円を上回り、打揚げの低寸物の輸入増大傾向。 「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

1996年 平成8年 瓜割煙火

瓜割煙火 瓜割煙火保存会に名称変更 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1998年 平成10年8月 瓜割煙火

瓜割煙火 長野市無形文民俗文化財に選択される。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1998年 平成10年 長野オリンピック

長野オリンピック閉会式で長野県花火組合が花火を打ち上げ 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1999年 平成11年11月23日 えびす講

えびす講煙火大会 20号玉打ち上げは昨年まで。本年は10号玉一斉打ちに変わる。 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

1999年 平成11年 近在花火

現在は見る事が出来ない近在花火 更埴市生萱・医師高野氏の「尺八寸玉」、同市桑原の「あだけ人形」、須坂市・田中半平氏と中野市竹原の「流星」 「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

2003年 平成15年 両国川開き

両国川開き 「江戸開府400年記念」とし、「和火」を再現。 「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

2004年 平成16年 全国伝統花火サミット

安茂里公民館で、第5回全国伝統花火サミットが開かれる。 「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

 

 

 to be continued…

ここから先もまだまだ続くのですが、公開前の確認作業が終了していません。もうしばらくお待ちください。

最後に。
この記事をきっかけに、花火に興味を持ってくれる人が増えることを願って。

参考文献(出版年月日順)

「参考文献 : 長野市恵比寿講煙火沿革史,百瀬長九郎編,金華堂書店,1925年11月18日」

「参考文献 : 竹原の花火 竜勢物語 「高井」6号,小野沢良秀,高井地方研究会,1968年3月10日」

「参考文献 : 三河煙火史, 三河煙火史編集委員会 編, 愛知県煙火組合, 1969年」

「参考文献 : 信濃の花火 幼児の教育
巻 77  号 8  p. 30-35,清水いく子,日本幼稚園協会,1978年8月1日」

「参考文献 : 茂菅区誌,茂菅区誌編纂委員会,茂菅区誌編纂委員会出版,1978年11月3日」

「参考文献 : 清水卯三郎 1867年パリ万国博をめぐって,千葉敬愛経済大学研究論集第19号,澤護,1981年」

「参考文献 : 西長野百年誌,西長野百年誌編さん委員会 編,西長野町百周年記念事業実行委員会出版,1982年.10月」

「参考文献 : 花火-火の芸術,小勝郷右 著,岩波書店,1983年7月」

「参考文献 : 和漢三才図会4,寺島良安 著 |島田勇雄 訳注 |竹島淳夫 訳注 |樋口元巳 訳注,平凡社,1986年7月1日」

「参考文献 : 瓜割煙火百五十周年記念誌,瓜割煙火百五十周年記念誌編さん委員会,瓜割煙火会,1986年12月」

「参考文献 : 和漢三才図会8,寺島良安 著 |島田勇雄 訳注 |竹島淳夫 訳注 |樋口元巳 訳注,平凡社,1987年11月1日」

「参考文献 : 長野県史 通史編 第七巻 近代一,長野県 編,長野県史刊行会出版,1988年」

「参考文献 : 長野県歴史人物大辞典,赤羽篤 ほか編,郷土出版社,1989年」

「参考文献 : 長野県史 通史編 第六巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

「参考文献 : 長野県史 通史編 第八巻 近代二,長野県 編,長野県史刊行会出版,1989年」

「参考文献 : 煙火,竹内武雄編,竹内武雄,1989年」

「参考文献 : 長野県史 通史編 第九巻 近世三,長野県 編,長野県史刊行会出版,1990年」

「参考文献 : 安茂里史 長野県長野市,安茂里史編纂委員会編,安茂里史刊行会,1995年」

「参考文献 : 機関誌 長野 第208号 1999の6,長野郷土史研究会,長野郷土史研究会,1999年11月」

「参考文献 : 日本の花火のあゆみ,武藤 輝彦,あずさ書店,2000年10月01日」

「参考文献 : 長野の花火は日本一,武藤輝彦 著,信濃毎日新聞社,2001年11月」

「参考文献 : 長野市誌 第12巻 資料編 原始・古代・中世,長野市史編さん委員会 編,長野市,2003年」

「参考文献 : 情報と通信の文化史,星名定雄,法政大学出版局,2006年10月」

「参考文献 : 日本で一番美しい晩秋の花火,長野商工会議所,長野商工会議所,2006年」

「参考文献 : 長野市民新聞連載 「写真は語る 長野市公文書館資料」6,2尺玉で名をはせる
‐晩秋の夜空を彩るえびす講 名煙火師‐ ,松島 耕二 著,長野市民新聞,2014年7月19日12頁」

「参考文献 : 南信州の煙火 火の芸術に魅せられた男たち(「綿五」原家コレクションを中心として),飯田市美術博物館 編,飯田市美術博物館出版,2014年7月」

「参考文献 : 信州の相撲人,京須利敏,信濃毎日新聞社,2017年5月18日」

「参考文献 : 長野県北信地方における煙火産業の存立基盤 地域研究年報 39 2017 125–141,坂本優紀・竹下和希・小林 愛,2017年」

「参考文献 : 花火 ものと人間の文化史,福澤徹三,法政大学出版局,2019年07月」

「参考文献 : 加茂神社拝殿屋根改修工事記念誌,加茂神社屋根改修工事建設委員会,加茂神社屋根改修工事建設委員会出版,2020年12月」

「参考文献 : 長野市史料集第2集」

「参考文献 : 県立長野図書館所蔵文書6-19-12」

「参考文献 : いきがやぶらり歴史さんぽ」

参考資料(五十音順)

「参考資料 : 大姥山トレッキングマップ」

「参考資料 : 加茂神社境内」

「参考資料 : 岐阜県恵那市山岡町 林昌寺」

「参考資料 : 信濃毎日新聞 明治34年11月22日」

「参考資料 : 信濃毎日新聞 昭和3年11月9日、21日」

「参考資料 : 武井神社」

「参考資料 : 千曲市生萱 埴科縣神社」

「参考資料 : 長野市立博物館 2階展示室 煙火コーナー」

「参考資料 : 七二会郷土歴史資料館」

「参考資料 : 日本のあかり博物館 博物館ノート」

「参考資料 : ハナビリウム新聞 株式会社日本橋丸玉屋」

「参考資料 : 松本城管理事務所 多湖家所蔵文書」

「参考資料 : 両国花火資料館 展示室」

「参考資料 : 落合誌 落合花火を打上げる会」