鍵屋弥兵衛 フィリピンに行く【マニラで出逢ったスターマイン】
どうしても気になったので調べました。1904年(明治36年)に11代目の鍵屋弥兵衛さんがフィリピンに行き、マニラでスターマインに出逢ったそうです。なぜフィリピンに行ったのか?フィリピンで何があったのか?について仮説を立てました。
こんにちは。花火歴史家です。
30冊以上の書籍から花火の歴史を調べました。
この記事の内容は、
「鍵屋弥兵衛さんがフィリピンに行った理由」
についてです。
鍵屋弥兵衛 フィリピンに行く【マニラで出逢ったスターマイン】
今回は、
「なぜフィリピンに行ったのか?」
「フィリピンに何があったのか?」
という疑問を持ったので調べてみました。
記事の内容は、
・鍵屋さんがマニラに行った理由
です。
⚠本記事は下記内容を元に考察した仮説です⚠
「1904年 明治三六年 五月から七月まで、鍵屋十一代目弥兵衛マニラに行き、スターマインを持ち帰る。八月、両国川開き大花火にスターマイン連発初めて登場す。」(宗家花火鍵屋ホームページ,2024.3.8閲覧)
結論
結論
「フィリピンの独立記念日の花火を視察に行った」
1898年6月12日、フィリピンはスペインから独立しました。
鍵屋弥兵衛が滞在中の1904年6月12日、独立記念の花火をマニラで見たのではないかと推測します。
日本語しかわからないのでフィリピンの伝承や記録は未確認ですが、この結論に至った理由を以下に記します。
疑問①
疑問
「なぜフィリピンに行った?」
その答えは、
「フィリピンの情報が入りやすかったから」
鍵屋弥兵衛がフィリピンに行った年は大勢の人が日本から渡航していたようです。
・1903年 明治36年
フィリピンへの本格的な移民が始まる。
1回目125名、2回目166名と回数を重ねるごとに渡航する人数が増えていき、1903年(明治36年)〜1904年(明治37年)にかけて移民会社により3096人が渡航した。
移民会社によらない独力渡航者は2020人を超えた。
約5000名の人が渡航先として選んだフィリピンの情報は、それ以外の国の情報よりも入りやすかったことでしょう。
加えて、渡航したけどフィリピンの環境に慣れずに帰国した人が約2000名いたそうです。
このようなことから、実際にフィリピンを見てきた人からナマの情報も日本に入っていたと思われます。
その情報の中には花火に関する情報があり、鍵屋弥兵衛にフィリピン行きを決意させるほどに興味深いものだったのではないでしょうか。
それとは別に、可能性としては「鍵屋マニラ支店」を作るために現地へ視察に行ったとも考えられますが、今のところそのような資料には出会えていません。
✓参考までに。
安土桃山時代にはフィリピンへ渡った日本人がいたようです。
・1593年 文禄2年
呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)
ルソンに渡海し貿易商を営むことで巨万の富を得た。
・1598年 慶長3年
呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)
秀吉から睨まれ日本人町のあるルソンへ脱出した。
・1614年 慶長19年
徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、高山右近・内藤如安らはルソン島に追放された。
疑問②
疑問
「フィリピンの花火ってどんな花火?」
答え。
「当時のスペインと同じ花火」
フィリピンは1565年〜1898年までスペインに統治されていました。
300年以上続いたスペイン統治時代の文化は現代のフィリピンにも数多くのこされています。
具体的には、
・現代のフィリピン人の9割近くがキリスト教であること
・スペイン語由来の言葉が今でもたくさん使われていること
・スペイン料理がフィリピン風にアレンジされ親しまれていること
などがスペインからの文化と言えるでしょうか。
花火に関してもスペインからの文化や技術がフィリピンに伝えられていたと考えられます。
キリスト教の布教活動や宗教行事に花火が使用されていた記録は日本にもあるので、フィリピンでもキリスト教のお祭りには花火が使われていたことでしょう。
疑問③
疑問
「スペインの花火ってどんな花火?」
答えは、
「当時のヨーロッパの花火」
ヨーロッパの花火技術はシルクロードの終着点であるイタリアを中心に発達しました。
世界三大発明といわれる「火薬・羅針盤・活版印刷」が実用化されたヨーロッパでは、1900年までに花火の研究所や学校が作られ花火の本も出版されています。
具体例は下記になります。
・1540年 イタリア
冶金学者最初の本「花火製造術」を出版
・1613年 イギリス
この頃から花火先進国の成果に学ぶことが熱心にすすめられたようで、主として政府の軍需品部が担当し国家的な行事の際には大活躍した
・1635年 イギリス
ロンドンで花火解説書「Pyrotechia」出版
・1672年 イギリス
テームズ川南岸のウリッジ兵器廟に花火研究所が設立され、さらに11年後には花火に関する手引書も刊行
・17世紀 イギリス
17世紀に入ると花火の技術を教授する学校がゲルマン諸国、ポーランド、スウェーデン、デンマークなど北方の国々に生まれた
・1878年 パリ
「煙火全書」出版 フランス軍火術学校長A.Dベルグロット他の共著5篇からなる本
・1879年 英国
「オエクシオップ」(西洋烟火の法)出版
このようなことからもわかるように、当時のヨーロッパでは花火に関する研究開発が相当に進んでいました。
でも、火薬の技術は軍事力に直結するので全てが伝わっていたのかどうかはわかりません。
しかし、出版された本に記載されている内容は万人が触れられる状態であることから、その技術がフィリピンに伝わっていたと考えても不思議ではありませんよね。
ちなみに、ヨーロッパで出版された花火の本は日本語に翻訳されており日本の花火にも影響をあたえています。
・1881年 明治14年 清水卯三郎
清水卯三郎が訳した「西洋烟火の法」出版。元は1879年にイギリスで刊行された「オエクシオップ」。
・1887年 明治20年 清水卯三郎
清水卯三郎が訳した「佛国新法煙火全書」出版。元は1878年に出版されたフランス軍火術学校長A.Dベルグロット他の共著5篇からなる本。
11代目鍵屋弥兵衛は、本で読んだ外国の花火を見たくてフィリピンに行ったのかもしれませんね。
疑問④
疑問
「独立記念日の花火ってどういうこと?」
答え。
「フィリピンはスペインから独立したんです」
フィリピンは1898年6月12日にスペインから独立しました。
独立にはアメリカからの支援があり、翌年にはアメリカ領となります。
・1565年〜1898年
スペインが統治
・1898年6月12日
スペインから独立
・1899年
米国領となる
・1904年5月〜7月
11代目鍵屋弥兵衛がマニラに滞在
独立運動が実を結んだことをフィリピンの人々は喜び、花火でお祝いしたのかもしれません。
独立を支援したアメリカも、フィリピンの独立記念日に花火でお祝いしたのかもしれません。
11代目鍵屋弥兵衛がマニラに滞在した5月〜7月の間に花火があったとすれば、独立記念日の花火である可能性は高いと思います。
鍵屋弥兵衛は6月12日の独立記念日の花火を見るためにフィリピンに行ったのではないでしょうか。
疑問⑤
疑問
「独立記念日のスターマインってどんな花火?」
答え。
「わかりませんでした!」
日本語しかわからないのでフィリピンの伝承や記録が読めません。ごめんなさい。
フィリピンに記録が残っているのかどうかも未確認ですが、今回は日本語の情報のみをまとめて一区切りとさせていただきます。
とはいえ、AIに翻訳を投げれば情報も見られるので、フィリピンの情報を確認したら記事を更新します。
そしてフィリピンの資料から次の情報がわかれば嬉しいです。
独立記念日の花火を担当したのは誰か?
・フィリピンの花火師
・スペインの花火師
・アメリカの花火師
独立記念日の花火はどんな花火だった?
・スペイン(ヨーロッパ)の花火
・フィリピンの花火(スペインの花火をベースにしてフィリピンで独自の進化を遂げた花火)
鍵屋弥兵衛が持ち帰ったスターマインはどんな花火だったのか?
・ヨーロッパの花火であれば、1879年にイギリスで刊行された「オエクシオップ」か、1878年に出版されたフランス軍の本に掲載されている可能性がある。
・上記の本に掲載されていなければ、フィリピンで生まれた花火の可能性もある。
まとめ
とりあえずまとめると、
本で読んだ外国の花火に興味を持っていた鍵屋弥兵衛。
そんな中、フィリピン帰りの人からフィリピンの花火についての話しを聞く。
本に書かれた花火を実際に見たくなった弥兵衛は、6月に特別な花火があると知りフィリピン行きを決意。
そして1904年6月12日、独立記念日の花火を見学。
その花火の中で特に感銘を受けた「スターマイン」を持ち帰り、両国の川開きで披露した。
言葉の壁はありますが2ヶ月の間に技術交流をしたことでしょう。言うなれば花火留学でしょうか。
独立記念日とわかっていれば日本から花火を持って行くこともできたと思います。
5月からフィリピンにいたとすれば現地で弥兵衛自身が花火を作ることもできたと思います。
いずれにしても、弥兵衛自慢の花火がフィリピンで披露されていた可能性も考えられますね。
最後に。
この記事をきっかけに、花火に興味を持ってくれる人が増えることを願って。
「参考文献:戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略,丹野勲,国際経営論集 No.50 2015」
「参考文献:戦前期フィリピン・ダバオにおける日本人学校の役割,小林茂子,社会文化研究・第5号」