昭和の花火 戦前・戦中・戦後【昭和元年〜昭和30年までの軌跡】
昭和の花火について調べました。戦前の花火は技術革新による発展を遂げました。戦時中の花火は戦争の激化に伴い制限され、終戦直後はGHQにより禁止。その後わずかな期間で復活できたのは、花火が伝統文化として根付いていたからです。
こんにちは。花火歴史家です。
30冊以上の書籍から花火の歴史を調べました。
本記事の内容は、
「昭和の花火 戦前・戦中・戦後」
についてです。
昭和の花火 戦前・戦中・戦後【昭和元年〜昭和30年までの軌跡】
今回は、
「昭和の花火ってどんな花火?」
「戦争中ってどうしてたの?」
という疑問を持っている方に向けた記事になります。
この記事では、
・戦前の花火
・戦争と花火
・戦後の花火
について説明しています。
戦前の花火
✓結論
戦前の花火は技術革新と普及の時代でした。
✓理由
・技術革新について
1927年(昭和2年)に青木儀作氏が「八重芯(やえしん)菊花型花火」を完成させました。
これは花火の芯星を二重に入れる技術です。
「二重」なのに「八重」と呼ばれる理由は、「数多く重なっていること」を「八重」と表現する日本語からきています。
この複数の芯を組み合わせて花火の色を複雑に表現する技術は進化を続けており、現代では「五重芯(ごえしん・いつえしん)」までが競技会などで見ることができます。
1928年(昭和3年)にアルミ爆が開発され花火の音の表現がさらに豊かになりました。
アルミ爆とは酸化剤とアルミニウムを主成分とした火薬のことです。
爆竹などの音響効果を重視する用途に適しています。
1933年(昭和8年)には東西「煙火工業組合」が結成され煙火業界の団体化が進みました。
これにより煙火の製造や販売の規制が整備され花火の品質と安全性がさらに向上しました。
そして戦前は滋賀の廣岡幸太郎と長野の田村仁三郎、愛知の外山愛次郎の三人が全国を行脚して技術を教える活動を行っていました。
この活動により全国各地の煙火師の技術が向上し花火のレベルがさらに高まりました。
・普及について
1928年(昭和3年)に西沢勇志智氏が「花火の研究」を出版しました。
これは花火の歴史や技術を体系的にまとめた書籍であり花火の普及に大きく貢献しました。
1930年(昭和5年)に東京警視庁が塩素酸カリウムと硫黄の配合を禁止したことで、花火の安全性が向上していくきっかけとなりました。
塩素酸カリウムと硫黄を主成分とした火薬は感度が高く、爆発事故が多発していたそうです。
このような安全性への取り組みは花火普及の追い風となりました。
✓まとめ
戦前の花火は技術革新と普及によりさらに発展を遂げ、日本の伝統文化としての礎を築いた時代であったと言えます。
戦争と花火
✓結論
日中戦争や第二次世界大戦の影響で花火は大きく制限されることになりました。
✓理由
・日中戦争の勃発により全国的に煙火の製造や販売が制限された。
・戦争の激化に伴い、花火は出征兵士の壮行や慰霊、戦勝祈願など軍事目的で用いられるようになった。
・物資や価格統制により花火の材料や燃料が不足した。
・物品税の引き上げにより花火は贅沢品とみなされ打ち上げが制限された。
・需要低下や空襲、職人の出兵により花火製造業者の多くが廃業状態となった。
✓具体例
1937年 昭和12年10月
・支那事変勃発。
・全国的に娯楽のための煙火は禁止の風潮。
1937年頃(日中戦争前後)の花火
・出征兵士を送り出す花火。
・戦死者の遺骨を出迎える花火。
・慰霊祭や戦勝祈願の花火。
・春と秋に行われる靖国神社の例大祭の花火。
・花火以外では防空演習用の発煙筒や焼夷筒を製造。
1938年 昭和13年10月
・日中戦争開戦後、政府による物品の統制が始まる。
・花火は例年の半分か三分の一。
・戦火が拡大により川開き大花火中止。
1939年 昭和14年
・物資と価格の統制始まる。
・個人では支給されない煙火の必要物資を組合として受け取る。
1941年 昭和16年12月
・第二次世界大戦始まる。
・全ての花火は中止。
・一部の業者は軍需品を製造。
・物品税始まる。20%。
・戦時特別税として物品税が煙火にも課税。
1942年 昭和17年10月
・各地の煙火組合を日本煙火工業組合に統合。
・物品税20%→60%。
1945年 昭和20年8月
・終戦。
✓補足
日中戦争や第二次世界大戦の影響で花火は大きく制限されましたが、一部の花火師は出征兵士の壮行や戦勝祈願の花火などを打ち上げていました。
しかし、それはあくまでも例外であり軍事目的の要素が強い花火で、花火の本来の用途としての活動は大きく制限されました。
戦時中の花火は、戦争という大きな時代の流れの中でその姿を変えざるを得なかったという事実。
戦争がなければ、花火はもっと自由に、そして人々に愛されるものとして発展していたかもしれません。
✓まとめ
戦時中の花火は戦争の激化に伴い花火の製造・販売・打ち上げが禁止・制限され、花火業界は大きな打撃を受けました。
終戦後もマッカーサー司令部によって火薬類の製造禁止令が出され停滞を余儀なくされました。
戦争は花火の歴史に大きな影響を与えました。
戦後10年間の花火
✓結論
終戦後の日本はGHQにより火薬類の製造などが禁止されましたが、徐々に復活の道を歩み始めました。
✓理由
当初は軍事的な危険性や火災の危険性から、GHQは花火の製造や打ち上げを禁止しました。
しかし1948年8月にGHQから煙火製造の許可が下りたことで、花火の製造と消費が徐々に再開します。
また1950年に火薬類取締法が公布されたことで花火の製造や打ち上げの規制が明確化され、より安全な花火の製造と消費が可能となったことも復活が促進するきっかけとなりました。
✓具体例
1945年 昭和20年10月10日
・マッカーサー命令で火薬類の製造禁止。
1946年 昭和21年7月4日
・各地でアメリカ独立祭の花火を打上
1946年 昭和21年8月
・岐阜長良川 岐阜市民の為に花火を打上
1946年 昭和21年9月
・土浦競技会開催
1946年 昭和21年
・日本化薬 黒色火薬と導火線の製造開始
1947年 昭和22年5月3日
・新憲法施行を記念して花火を打上
1948年 昭和23年8月1日
・GHQより煙火製造の許可が出る
・両国の川開き花火を開催
・各地の祭り煙火も復活する
1950年 昭和25年5月
・火薬類取締法公布
1951年 昭和26年1月
・玩具煙火の物品税廃止
1953年 昭和28年
・海外市場調査会が海外宣伝に花火を利用
1953年 昭和28年
・火薬類取締法 施行規則改正
1956年 昭和31年7月
・3号以下信号用花火 物品税非課税
✓補足
1948年にGHQより煙火製造の許可が出たあとに日本各地で花火が復活しますが、
「戦後の日本は貧しいのに、なぜ花火は復活できたのか」
と疑問に思うかもしれません。
その理由は江戸時代から続く花火文化が関係しています。
江戸時代には神聖な祭りや儀式との結びつきが生まれたことで神聖視され、
「神々への感謝や祈りを表現する手段」
として花火を使う文化が定着していました。
このような日本特有の花火文化が「戦争の傷跡を癒し復興を願う花火」を求めた結果、戦後の混乱の中でも花火への希望が高まり、終戦から10年も待たずにたくさんの花火が打ち上げられました。
花火は単なる娯楽ではなく、人々の希望や願いを込めた特別な存在なのです。
一方で花火の打ち上げによる事故も起こりました。
国が法律を整備して、花火業者は法律に沿って安全対策を強化しつつ技術を向上させて対応しました。
このように戦後の日本の花火は、アメリカ軍の占領や火薬類取締法の制定などさまざまな出来事を乗り越えて復活したのです。
✓まとめ
戦後日本の花火の復興は単なる娯楽の復活にとどまらず、人々の希望や復興への思いが込められた歴史的な出来事でした。
その歴史を振り返ることは現代の私たちにとっても大切な意味を持つのではないでしょうか。
本文は以上になります。
今回は「昭和の花火 戦前、戦中、戦後」という内容で記事を書いてみました。
戦前の花火は技術革新と普及により輝きを増し、日本の伝統文化としての礎を築きつつありました。
しかし戦争の激化は花火業界に大きな影を落とします。
製造・販売・打ち上げが禁止・制限され、人々の心から光が消えていったのです。
これは戦時下の国民生活にも重なります。
戦争は人々の自由を奪い生活を困窮させ、希望を消し去ろうとしました。
終戦後の国民は困難な状況の中で力を合わせ、復興に向けて歩み始めました。
焼け野原から立ち上がり経済を復興させ、平和な社会を築き上げていったのです。
同様に花火業界も困難な状況の中で技術を磨き、戦後10年のあいだにたくさんの花火を打ち上げました。
夜空に咲き誇る花火は単なる娯楽の復活ではなく、戦争で失われた希望を取り戻し、復興への強い意志を表明するものでした。